アフガン・イラク・北朝鮮と日本
《掲示板の論点7》 帰還事業 参考資料

  [論点解説]

 拙アフガン板で、在日朝鮮人の帰還事業(注)について、その責任の所在を巡る議論が続いています。
 http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/2807/kakolog55.htm
 http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/2807/kakolog56.htm

(注)在日朝鮮人の帰還事業・・・1950年代後半から主に60年代にかけて、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)などが日本赤十字などと協力して取り組んだ、在日朝鮮人の祖国(北朝鮮)帰還事業の事を指す。当時、日本国内で民族差別に苦しめられていた在日朝鮮人の間で、北朝鮮への帰国熱が高まっていた。その中で、朝鮮総連が中心になり、日朝両国政府や日本赤十字の協力の下で、帰国事業が取り組まれ、約8万9千人が日本から北朝鮮に渡った(その内約6,600人の日本国籍者が含まれる。その多くは日朝二重国籍者であるが、日本単独国籍の日本妻が約1,600人余がいた)。当時それらの帰国者は「社会主義の祖国」「地上の楽園」と謳われていた北朝鮮に夢を抱いて帰国した。しかし、やがて北朝鮮の経済的困窮や在日帰国者に対する差別・迫害が世の知る所となり、帰国者の数は急激に減少していった。帰還事業の事を、朝鮮総連では「帰国事業」、民団(当時は在日本韓国居留民団、現代の在日本韓国民団)の方では「北送事業」と呼んだ。当時、朝鮮総連と対立していた民団の一部は「北送事業」阻止闘争を展開していた。

 私は、この問題の責任の所在については、下記の様に整理して、それぞれ「いつの時点の」「どの様な行為に対して責任を負うべきなのか、「その責任は果たされたのか」を考えていかなければならないと思っています。

(1) 北朝鮮政府:朝鮮戦争後の労働力不足を補う為に、在日の帰国を発意・推進。
(2) 朝鮮総連(主流派):北朝鮮政府の意向を受けて、帰国事業を実行。その際、北朝鮮に対する社会主義幻想を、在日朝鮮人差別の現実との対比の中で最大限に利用。
(3) 日本政府・日赤:表向きは人道主義に基づく在日外国人の帰還促進支援、本音は生活保護負担軽減と治安面の不安払拭(厄介払い)の為に、帰国事業に協力(便乗)。
(4) 社共両党:朝鮮総連と一体になって、帰国事業に積極的に協力した。
(5) マスコミ:(1)〜(4)の流れを煽る。これは読売・産経も含めた当時の殆どのマスコミについて言える事である。
(6) 在日コリアン:その大半は韓国出身者であるが、当時の民族差別や韓国政府の在日入国拒否政策の中で帰国事業に身を投じる者が続出。民団の一部が反共的見地から反対したのみ。帰国事業の最大の犠牲者である。

 以下、(1)〜(6)のそれぞれについて、アフガン板での議論を順番に紹介していきたいと思います。尚、議論そのものは私の立てた上記の章立てには拘束されずに進行しているので、議論紹介も、(1)〜(6)の幾つかについて順不同でトピック的な形での物になります。

  [参考資料1] 当時のマスコミの責任--帰還事業を巡る当時の新聞記事より(一部引用)

朝日新聞  1959年12月25日朝刊

「ばく進する馬」北朝鮮
よくはたらく人々 飛行場変じてアパート
 
 「チョンリマ」という言葉を北朝鮮では盛んにきかされる。「千里の馬」の意味だ。朝鮮の古い伝説にある千里をかける馬はいま北朝鮮の経済建設の合い言葉である。農村で使うトラクターに千里馬号というのがあるかと思うと、マッチまで馬の絵を描いた千里馬マッチ、おそらく北朝鮮で金日成首相の肖像の次に多いのは千里の馬が勇しくかける絵であろう。(以下略)

【出典】
・日本財団HPの「図書館」のページより引用。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00997/mokuji.htm

毎日新聞  1959年10月28日朝刊

「帰国」に実った超党派の友情/願いは一つ・人類愛/はればれ あっせん二人男

 ただならぬ雲行きだった北朝鮮帰還問題も二十七日、すみきった秋空のように笑顔の解決≠ノゴールインした。「帰還案内」をめぐる日本側と北朝鮮側のはげしい対立を思うと、鮮やかな逆転劇でもあった。だがそのうらには自民、社会という与、野党の立場を捨てて、在日朝鮮人の帰国という人道主義≠フ旗じるしのもとにしっかりと手を結び合った二人の政治家―自民党の…代議士(帰国協力会代表委員)と社会党…代議士(同幹事長)の超党派友情≠ェあった。(以下略)

読売新聞 1960年1月9日朝刊

「北朝鮮へ帰った日本人妻たち」

 はじめてみる夫の祖国、朝鮮民主主義人民共和国に帰った日本人妻たちはどんなお正月を迎えたでしょうか。平壌でともに新春をすごした島元読売新聞特派員から、第一船と第二船の帰国者や日本人妻たちの帰国後の模様、とくに北朝鮮で迎えたその日本人妻たちのはじめてのお正月の感想などを伝えてきました。(以下、下記の様な小見出しが付けられてそれぞれに本文が続く)

 ★「夢のような正月」ほんとうに来てよかった
 ★おモチも特配
 ★どっちが祖国か
 ★金首相が招待

産経新聞夕刊  1959年12月24日

「暖かい宿舎や出迎え/第二次帰国船雪の清津入港/細かい心づかいの受け入れ」【清津で坂本記者】

…出迎えた人は人口二十万のこの市で五万人。手に手に、もも色の造花、国旗を持って港一帯から沿道は歓呼の列で埋められた。…岸壁に着くと「マンセイ(万歳)」の爆発。五色の紙吹雪を浴びながら帰国者はすぐ前の休憩所に入った。一階建てだが、日比谷公会堂以上の大きさ。ソファーが五、六〇あり、あとは清潔なベンチが並んでいた。
 熱風を送る装置がたくさんあって部屋は暖かく、千人近い帰国者をすっぽり収容してまだおつりのくる広さだ。こういうことのできる母国の経済力に帰国者は驚き、安心したに違いない。(以下略)

【出典】

・毎日・読売・産経の新聞記事については、高橋亨さんが運営されている「対抗言論」のHP並びに、拙アフガン板の「まこと」さんの投稿「「帰国事業」を検証するための資料(1)〜(4)」('04年9月7日投稿)より引用。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/korea-raisan.htm
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/2807/kakolog55.htm

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※「日本財団」のHPには朝日新聞のみ帰国事業当時の記事が紹介され他紙は'60・70年代以降の記事しか紹介されていなかったので、他紙については「対抗言論」のHPや「まこと」さんの投稿から改めて引用・紹介させてもらいました。此れを見てつくづく思うのは、「当時はどの新聞も礼賛記事一色だったのだなあ」という事です。

  [参考資料2] 政府・日赤の責任--モーリス・スズキ氏の発掘文書を巡って

【ニュース−「帰国事業」】「北朝鮮帰還事業で新資料 政府や日赤の積極関与明らかに」 (朝日新聞 04.09.16) 
投稿者:
まこと(元M)@昼?休み  投稿日: 9月16日(木)16時42分44秒
これは、先日の「帰国事業」を巡る議論とも大いに関係するニュースだと思います。

私が前に紹介した「帰国事業」当時の産経新聞の記事では、日赤の島津社長(当時)が「人道が何よりも大事」とのコメントを寄せていましたが、実際には「人道」に名を借りた「国策」への協力だったということだったのでしょう−在日朝鮮人を「厄介払い」するための。

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「北朝鮮帰還事業で新資料 政府や日赤の積極関与明らかに」 (朝日新聞 04.09.16)

 在日朝鮮人9万人余が北朝鮮に渡った帰還事業(59〜84年)に先立ち、日本政府や有力政治家、日本赤十字が55年から赤十字国際委(本部・ジュネーブ)に積極的に働きかけていたことを示す秘密文書が、オーストラリア国立大学のテッサ・モーリス・スズキ教授(日本史)の調査で明らかになった。大量帰還をめざして日本の政治・行政が早い段階から主体的に関与していたことが、文書で裏付けられた。

 帰還事業は、帰った人が行方不明になったり「脱北」したりした実態が後にわかり、実施の経緯について議論がある。

 文書は、赤十字国際委が秘密扱いを解き今年公開した。帰還事業は一般に、58年の在日関係者の運動や北朝鮮政府の呼びかけなどで機運が高まり、それを受けて59年2月に日本政府が実施を閣議了解したと説明される。公開された文書は56年7月に国際委が帰還実現へのあっせんを提案する以前のもので、この時期に日本の政治・行政が積極的に行動したことを示す資料はほとんど知られていない。

 55年12月の国際委への書簡で島津忠承・日赤社長は「帰還が韓国との間に問題を起こさないなら、そしてそれが北朝鮮の赤十字でなく国際委の手で遂行されるなら、日本側は全く異論はなく、むしろ期待を寄せるものである」と述べ、国際委の関与による大量帰還の実現を要望した。追伸には「この書簡は日本の外務省と法務省の有力当局者の完全な了承を得ている」と書いていた。

 56年1月の国際委への書簡で日赤の井上益太郎外事部長は、与党に帰還支援を始める兆しがあり、「芦田均元首相や岡崎勝男元外相が(略)在日朝鮮人の帰還を支援する政策を具体化すると、非公式に私たちに伝えてきた」と記し、国際委の協力決断を促していた。

 56年春に国際委が日本に送った特使のメモには、重光葵外相が「とりわけ日本で悲惨な生活を送る女性や子供たちが早く自分の国へ帰るよう希望する」と特使に述べたと記されていた。

 また、島津社長は57年2月の書簡で、同封の文書が政府の同意を得ている事実は公表しないでほしいと要望していた。背景には、韓国を刺激したくないという政府の意向などがあったと見られる。

 モーリス・スズキ教授は「日本政府が早くから大量帰還政策を秘密裏に進め、日赤がその『国益』を代行した構図が見えてきた。北朝鮮政府や朝鮮総連だけでなく日本政府や日赤にも、帰還事業について説明責任がある」と語っている。

http://www.asahi.com/national/update/0916/004.html

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(以下略)

【これまで言われてきた「帰還運動の発端」】と【55年段階での日本の工作】 
投稿者:
鍋山  投稿日: 9月25日(土)01時25分6秒
あらためて、
まことさん投稿の朝日の記事は、極めて注目されます。

【歴史をくつがえす発見です】
「55年段階から日朝の折衝が行われていた!」

「アフガン・イラク・北朝鮮と日本掲示板」 過去ログ
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/2807/kakolog56.htm
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【ニュース−「帰国事業」】「北朝鮮帰還事業で新資料 政府や日赤の積極関与明らかに」 (朝日新聞 04.09.16) 投稿者:まこと(元M)@昼?休み  投稿日: 9月16日(木)16時42分44秒

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「北朝鮮帰還事業で新資料 政府や日赤の積極関与明らかに」 (朝日新聞 04.09.16)

 在日朝鮮人9万人余が北朝鮮に渡った帰還事業(59〜84年)に先立ち、日本政府や有力政治家、日本赤十字が55年から赤十字国際委(本部・ジュネーブ)に積極的に働きかけていたことを示す秘密文書が、オーストラリア国立大学のテッサ・モーリス・スズキ教授(日本史)の調査で明らかになった。大量帰還をめざして日本の政治・行政が早い段階から主体的に関与していたことが、文書で裏付けられた。

 帰還事業は、帰った人が行方不明になったり「脱北」したりした実態が後にわかり、実施の経緯について議論がある。

 55年12月の国際委への書簡で島津忠承・日赤社長は「帰還が韓国との間に問題を起こさないなら、そしてそれが北朝鮮の赤十字でなく国際委の手で遂行されるなら、日本側は全く異論はなく、むしろ期待を寄せるものである」と述べ、国際委の関与による大量帰還の実現を要望した。追伸には「この書簡は日本の外務省と法務省の有力当局者の完全な了承を得ている」と書いていた。

 モーリス・スズキ教授は「日本政府が早くから大量帰還政策を秘密裏に進め、日赤がその『国益』を代行した構図が見えてきた。北朝鮮政府や朝鮮総連だけでなく日本政府や日赤にも、帰還事業について説明責任がある」と語っている。

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【これまで言われてきた「帰還運動の発端」】

1957.8.15
「朝鮮解放13周年記念 在日朝鮮人中央慶祝大会」
突如として総連が、「在日朝鮮人の集団的な帰国を運動方針」を打ち出す。
(それまで、総連は「長期在日を前提とする生活権確保闘争」を方針としていた。)

〔サクラとして〜〕8月11日に、総連の下部組織・女性同盟川崎支部副分会長から金日成首相に、帰国を希望するという手紙。
〔金日成から歓迎の表明〕

1958.9.8 「北朝鮮創建10周年記念慶祝大会」
金日成声明
 「無権利と民族的差別と生活難にあえぐ在日同胞は、最近朝鮮民主主義人民共和国に帰国する希望を表明してきました。朝鮮人民は、日本で生きる道を失い、祖国のふところに帰ろうとするかれらの念願を熱烈に歓迎します。共和国政府は、在日同胞が祖国に帰り、新しい生活をいとなめるようすべての条件を保障するでありましょう。われわれはこれを民族的義務と考えています」。

〔背景として〕
・北朝鮮の労働力不足〜1958年、朝鮮戦争に参戦した中国人民志願軍が30万人撤退。
・総連の分派闘争と官僚統制による組織率の低下を食い止め、「日韓会談」に対抗する一大運動としての「帰国運動」。

〔これを受けて「人道的観点から」の日本政府の受け入れ。もちろん「厄介払い」という側面があった。〕
11.17 在日朝鮮人帰国協力会、日本自由民主党衆議院議員岩本信行らを中心に結成
1959.2.13 日本政府閣議決定「在日朝鮮人中北朝鮮帰還希望者の取扱いに関する閣議了解」

【55年段階から日朝の折衝が行われていた】

これまで言われてきた「帰国運動の発端」から、2〜3年も前から!
朝鮮戦争休戦(1953.7)から、わずか2年後!

【日本政府の思惑として、これまで言われてきた「厄介払い」だけでなく、「治安対策」という側面が強いのではないか。日本政府から金日成へ、カネが渡された可能性まで想像される。】
【55年、日本共産党から一万人を超えるといわれる朝鮮人が一斉離党し、総連結成に参加しているのだから。】


*その後、下記の訂正投稿有り。

ぼんくらおじさん ひとの投稿をよく読んでください 
投稿者:鍋山  投稿日: 9月25日(土)21時49分14秒

(前略)
【55年、日本共産党から一万人を超えるといわれる朝鮮人が一斉離党し、総連結成に参加しているのだから。】

この人数について、共産党も、もちろん総連も明らかにしていません。
いろいろ説はあるようですが、【3000人から1万人以上】というしかないですね。

「帰国事業」と赤十字国際委員会 
投稿者:
まこと(元M)@帰宅  投稿日: 9月27日(月)10時31分42秒
「コミュニケ」というのは普通、共同声明や共同宣言文の事を指しますが、赤十字国際委員会が日本赤十字社や朝鮮赤十字会と「コミュニケ」を結んだという事実はあるのでしょうか?私も興味がありますので、ご存知の方いましたら資料のポインタを教えていただけないでしょうか。

・ちなみに↓は「在日朝鮮人の帰還に関する日朝赤十字協定」です。

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19590813.T1J.html

ここには赤十字国際委員会に関連して、以下のように記されています。

「2.日本赤十字社は,赤十字国際委員会に対し,帰還希望者の登録機構の組織と運営とが人道的原則に則つた公平なものであることを保障するために,赤十字国際委員会が必要かつ適当と考える措置をとることを依頼する。 (略)

(イ)日本赤十字社が帰還希望者の登録機構を組織する場合,助言を与えてくれるよう依頼する
(ロ)前記の登録機構の運営が適当であるかどうかを確かめるよう依頼する。
(ハ)前記の登録機構の運営について必要な助言を与えるよう依頼する。 」

・以下は、「かるめぎ」58号からの引用です。

「外務行政公開文書に見る帰国事業」 川島高峰(明治大学助教授)  

 「2001年8月20日、 私は情報公開法に基づき外務省に行政文書開示の請求を行った。 文書名は、 「北朝鮮関連領事事務」 (アジア局北東アジア課 1959年1月30日〜8月8日) である。(略)こうして、 2003年10月、 約2千ページに及ぶ文書が公開されるに至ったのである。(略)」

「(前略)さらに、 ジュネーブ会談に向けた日朝交渉の最中に、 井上が記した書簡も公開された。 日付は1959年3月24日とある。 井上は、 帰国が諸個人の個別自費帰国なら意志の確認の必要はないが、 「意志確認のため国際委員会が介入して来なければやれないという唯一の理由」 は、 それが 「集団帰国」 だからであると指摘していた。
何故ならば、 集団のリストを作成した時点で、 全員の帰国意志が確定したと看做すことはできないからである。 「帰国意志の自由」 とは、 乗船の間際まで変わり得るものであり、 それ故に、 乗船直前の確認が最も重要であり、 「それ以前の段階は、 それほど重要ではありません」 とまで述べていた。 つまり、 「帰国の条件 (安全度、 時期、 待遇等) が確定した後でなければ、 表示できない筈」 のものであり、 それ故に、 条件が曖昧な段階で単に希望者を募ったとしても、 それは 「蓋然的意思表示又は解除条件付意思表示としか看做すことが出来ず」、 「総連のリストのトリックは正にここにある」 と 「喝破」 した。 そこには明らかに蓋然的であれ日本にはいたくない、 との意志の表れでもあることに対する配慮は薄かったと言えよう。 それでも、 この段階で日赤として確認すべきこととして 「帰国条件を正しく理解しているか? (殊に再び日本に来れないことを知っているか?)」 と、 帰国事業が一方通行であることの重大性を指摘していた。

 ここで重要な点はジュネーブ会談に至る日朝赤十字間での交渉で、 日本側が一貫して個人の意志確認の手続きが必要であることを主張していたのに対し、 北朝鮮側は、 「帰国意志を 『確認』 し、 また 『スクリーン』 するという主張には反対である。 これは在日朝鮮人の人権を侵害しその帰国の実現に人為的な障害をつくり出す不当なもの」 として、 最後まで譲らなかった点である。 私は殊更に日赤の肩を持つ意図はないが、 これらの資料を見ると帰還事業について日本政府と日赤の共謀による追放政策という面のみを強調することには無理があるように思う。

 そもそも、 意志の確認は、 当時国の赤十字が行うと著しく客観性を欠くということから、 専らこれは国際赤十字の管轄すべき事柄と認識されていた。 つまり、 日本赤十字が意志の確認作業をするということ事態が、 逸脱行為なのである。 しかし、 その後、 国際赤十字による意志の確認作業は形骸化したと思われる。 仮にそれが行われていたとしても、 今日、 伝えられるところによると、 その多くは日赤が行う業務ということを前提にした話が多い。
本来であれば、 国際赤十字のスタッフが乗船直前に個人、 個人に対し面談して、 意志確認を行うはずであった。 一体、 この変貌は何によってもたらされたのか?(以下略)」

http://homepage1.nifty.com/northkorea/karume58.htm

この資料によると、日本赤十字社は帰国希望者の意思の確認は中立性を担保するために赤十字国際委員会が行うべきと主張していたようですが、実際の「帰国事業」ではこれが十全に実施されなかったようです。

根拠といえるかどうかわかりませんが・・ 
投稿者:
ぼんくらおじさん  投稿日: 9月27日(月)11時16分34秒
けんか腰のつもりはなかったのですが、ちょっと語気が荒く、そういう印象を与えてしまったことはお詫びします。ところで、私の「南には帰れるが、北には帰れない」という部分についてご指摘を受けた件で、とりいそぎ簡単に回答いたします。

1.終戦直後の在日朝鮮人の帰国の推移(1945〜1950)
 時期       南朝鮮へ   北朝鮮へ
 1945.08-1946.03  940,438
 1946.04-1946.12  82,900
 1947        8,392     233
 1948        2,882     118
 1949        3,482
 1950        2,294
  計      1,040,388     351
【1965.11参議院日韓特別委員会に法務省出入国管理局が提出した資料。佐藤勝巳:在日朝鮮人 同成社 1974.11.20所収】

2.北朝鮮への帰国問題
解放後、在日朝鮮人の集団的帰国は朝鮮戦争以前からストップしていた。(中略)こうした状況下、社会主義祖国の戦後復旧建設に参加したいという希望を抱く人たちもでてきて、1953年以降帰国の要求が高まっていった。1956年四月には在朝日本人の引揚船小島丸乗船を希望して、48名の同胞が日赤への座り込みなどを行なったが、それは実現せず、大牟田港で出航する外国船での帰国も韓国側の圧力で不可能となり、結局他の方法で九月に20名が帰国した。
一方、1958年には大村収容所に収容されていた韓国からの、いわゆる「不法入国者」たちが強制送還を拒否して、即時釈放と共和国への帰国を要求する運動(ハンスト)などがおきていた。・・
【朴慶植:解放後在日朝鮮人運動史 三一書房 1989.03.15】p.398〜p.399より抜粋。
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3.赤十字国際委員会のコミュニケ(1959.08.11発表)については、コミュニケ全文なるものが手元にありますが、これを入力するのはちょっとかったるいので、後刻にさせてください。(多分一回では収まらない程度の分量ですので)
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【余談】我が市の市立図書館で「帰還」とか検索しても適合する図書はありません。どうも単行本で北朝鮮帰還事業を扱ったものはきわめて少ないようです。引き続きいろいろ調べてみましょう。
1955年時点で日赤が国際赤十字に帰還問題の仲介等の打診をしているからといって、帰還事業は日本政府・日赤による「朝鮮人厄介払い」であると決め付ける理由にはならないと思います。在日朝鮮人が起こす治安上の問題、韓国からの不法入国者問題、李ライン(日本漁民拿捕問題)等、朝鮮・韓国と日本との関係は一筋縄ではいかない事情があります。太田昌国氏も「拉致異論」で、帰還事業の責任の所在について当時の左翼文化人、マスコミなどを挙げていますが、日本政府と日赤の「謀略」については言及していなかったように記憶していますが・・。

スズキ教授の幼稚な短絡 
投稿者:
ぼんくらおじさん  投稿日: 9月28日(火)10時01分43秒
こういう年表↓があります。

1954(昭和29)
  01.06  日本赤十字社(日赤)北朝鮮残留日本人の帰国援助を朝鮮赤十字会
      (朝赤)に申し入れる(赤十字社連盟を通じ)。
       同時に残留日本人の帰国が許されるなら、その船便を利用し、在日
       朝鮮人の帰国を援助する旨を表明。
  02.22,08.19,
  11.25  日赤、催促の電報や別提案するも応答なし。

1955(昭和30)
   4月   北朝鮮が日本人の送還を計画している旨、ニューデリーのアジア諸
       国平和会議に出席した畑中政春氏より日赤に連絡あり。
  04.13  日赤、朝赤に確認求める。
  04.18  朝赤より送還に努力中という回答あり。この直後に北朝鮮・南日外
       相声明あり。「日本人の帰国は日朝協会と共同で日赤が当たり、打
       合せのため両者の代表を平壌に派遣するよう要請」
  12月   国際委への書簡で島津忠承・日赤社長は「帰還が韓国との間に問題
       を起こさないなら、そしてそれが北朝鮮の赤十字でなく国際委の手
       で遂行されるなら、日本側は全く異論はなく、むしろ期待を寄せる
       ものである」と述べ、国際委の関与による(朝鮮人)大量帰還の実
       現を要望した。
←スズキ教授が発見したという文書(投稿者挿入)

1956(昭和31)
  01.27  日赤代表団、平壌到着。【葛西嘉資(副社長)、井上益太郎(外事
       部長)、宮越喜助(嘱託―日朝協会の役員を一時辞任)】
  02.27  共同コミュニケ調印。コミュニケ末尾に「双方はこの問題(在日朝
       鮮人の帰国問題)の解決が人道主義的両国赤十字団体の切実な関心
       事として残っていることを確認する」の確認あり。
  03.15,
  04.10  朝赤、在日朝鮮人の帰国に関する申し入れを日赤へ。
  04.11  日赤、韓国からの安導券(日本から北朝鮮に無事渡航するための韓
       国側の保証書)が得られないので無理と回答。
  04.16  首都圏の北朝鮮帰国希望者48名、日赤に要請行動、そのままテン
       トをはって泊り込む。この頃極東訪問中の赤十字国際委員会訪問団
       が目撃し、資料を集めて帰国。
   7月   赤十字国際委員会、日赤に書簡と覚書を送り、在日朝鮮人帰還問題
       に乗り出す。
  08.01  日本政府、赤十字国際委の提案に同意。
  08.06  北朝鮮政府も赤十字国際委の提案に同意。ただし韓国赤十字社は、
       北朝鮮への帰還は自由と権利を奪われ、奴隷の如く扱われる、人道
       の原則に反すると反対。
(以下省略)
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読んでみると、モーリス・スズキ氏や朝日新聞が言うところの↓

大量帰還をめざして日本の政治・行政が早い段階から主体的に関与していたことが、文書で裏付けられた。(中略)モーリス・スズキ教授は「日本政府が早くから大量帰還政策を秘密裏に進め、日赤がその『国益』を代行した構図が見えてきた。北朝鮮政府や朝鮮総連だけでなく日本政府や日赤にも、帰還事業について説明責任がある」と語っている。

↑というような「日本の陰謀」と言わんばかりの筋書きとはまったく違う歴史が見えてきます。朝鮮人帰還事業とは本来、在朝日本人の帰還問題に対する、いわば「交換条件」だったのですね。スズキ教授のようなバカ先生の短絡お説が、いかに歴史を歪曲するか、朝日新聞がいかに自らの過ちに無反省であるかを如実に表している好例であります。

参考文献:
鄭 箕海著 鄭益友訳:帰国船 北朝鮮 凍土への旅立ち 文春文庫 文藝春秋社 1997.11.10
(上記の年表は同書付録の関連年表から1954年〜1956年のみを抜書きしたものです。)

年表のつづき 
投稿者:
ぼんくらおじさん  投稿日: 9月30日(木)18時20分2秒
管理人さんの許可をいただきましたので、年表のつづきを示します。1957年から1960年まで。

1957(昭和32)
  03.31  前記48名中、28名、日本船で博多出発、4月4日清津着で帰国。
       (↑投稿者注:前年、日赤前に座り込んだ帰国希望者たちをさす。) ←脚注参照
  08.16   日赤、政府に強く働きかける(一部在日朝鮮人帰国問題)。
       3年半前の約束(1954.01.06申し入れ)もあり、純人道上の問題と
       して。
  09.20  日本政府、日赤へ回答。
      「韓国政府の黙認が必要。その説得のため国際赤十字に期待する」
  12.06  残る20名(投稿者注:座り込みの未帰国者)、門司発のノルウェ
       ー船ハイリー号で極秘裏に上海経由で北朝鮮に帰国。 ←脚注参照

1958(昭和33)
  06.18〜 大村収容所で北朝鮮帰国希望者の一部がハンストに入る。 ←脚注参照
  07.03  衆院外務委員会、この問題で日赤の見解聴取。
  08.11  神奈川県川崎市の在日朝鮮人が、金日成首相あて帰国希望表明の手
       紙を出す。
  09.16  北朝鮮政府、帰国希望者の受け入れ表明。
  10.19  日本社会党中央委員会、全党をあげて協力することを決定。
  10.21  日本共産党アカハタ社説(主張)「在日朝鮮人の帰国要求を全面的
       に支持する」
  11.17  在日朝鮮人帰国協力会結成(会長鳩山一郎、幹事政党・労組代表、
       文化人ら17名、幹事長帆足計)。以後各県に支部結成されていく。
  11.23  日本共産党第3回中央委員会総会「在日朝鮮人の帰国を支持する決
       議」採択。「全党組織は各地においてできる限りこの運動を援助し
       なければならない」(末尾)
  12.30  北朝鮮側、派船の意思を表明(南日外相声明)

1959(昭和34)
  01.20  日赤理事会で「純人道上の問題として早期解決を」決議。
  02.13  北朝鮮帰還に関する閣議了解。
  04.13〜 
  06.24  両国赤十字、ジュネーブ会談。
  08.11  赤十字国際委、帰還事業に関し日赤に協力する旨ほかコミュニケ発
       表。                 ←内容は先日投稿の拙稿参照
  08.13  インドのカルカッタにて、両国赤十字社、帰国協定調印。
  9月末  国際委特別代表団23名来日し、駐日。
  12.14  帰国第一次船(ソ連船)新潟を出航。以後毎週千人単位で。
       (投稿者注:ソ連船トボリスク号(3498t)、クリリオン号(5034t)。
       第一次帰還者975人。)

1960(昭和35)
  10.27  帰国協定1年間延長。以下1967年11月12日まで7回更新。
       1962年前半期、帰還希望者が激減するので(半年間で二千名未満)、
       同年11月08日の第三回更新より、少数長期の方針に変更(配船は月
       1〜2回、毎回約200名)。
       北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会(以下「守る会」)のAさんの
       息子3人、祖父母とともに北朝鮮帰国。
-------------------------------------------------------------------------
参照文献:
鄭 箕海著 鄭益友訳:帰国船 北朝鮮 凍土への旅立ち 文春文庫 文藝春秋社 1997.11.10

【投稿者注】
日赤前の座り込みについては、先の拙稿【根拠といえるかどうかわかりませんが・・投稿日: 9月27日(月)11時16分34秒】の以下に示す部分を参照のこと。↓

1956年四月には在朝日本人の引揚船小島丸乗船を希望して、48名の同胞が日赤への座り込みなどを行なったが、それは実現せず、大牟田港で出航する外国船での帰国も韓国側の圧力で不可能となり、結局他の方法で九月に20名が帰国した。
一方、1958年には大村収容所に収容されていた韓国からの、いわゆる「不法入国者」たちが強制送還を拒否して、即時釈放と共和国への帰国を要求する運動(ハンスト)などがおきていた。・・
【朴慶植:解放後在日朝鮮人運動史 三一書房 1989.03.15】p.398〜p.399より抜粋。


つまり、北朝鮮残留の日本人36名は無事帰国できたのに、われわれはなぜ返してくれないのかと、日赤に抗議、強い帰国希望を表明したものであるが、この文(朴慶植氏)と前述の年表とでは帰国の事実記述が大きく食い違っていることにもご注意願いたい。

モーリス・スズキ文書に対する評価 
投稿者:
社会主義者  投稿日: 9月28日(火)20時55分0秒
 モーリス・スズキ文書に対する評価については、私もまことさんの説明で良いと思います。
 以下、まことさんの直近投稿「日本赤十字社が日本政府と「グル」になって在日朝鮮人を強制送還するために「帰国事業」を行った−とは言い難いと思う」(投稿日:9月28日(火)13時52分34秒)の要旨です(というより、殆ど引用)。

(1) 日本政府が「帰国事業」を進めた背景には在日朝鮮人「厄介払い」の意図も見え隠れしていた。そして、日本赤十字社は「人道」の名の下にこの政府の政策に協力し、かなり早い時期から水面下で動いていた。

(2) しかし、少なくとも日本赤十字社は「帰国事業」が現実に実施されるギリギリの局面まで赤十字国際委員会の関与の下で「帰国者」本人の意思確認を行おうとしていたという形跡が伺えるわけで、こうした事実からも、日本赤十字社が「在日」を北朝鮮へ「強制送還」しようという意思を持って同「事業」に関与したとは言い難い。現時点で判明している事実関係をもって、日本赤十字社に「帰国事業」の結果として在日朝鮮人や日本人配偶者の生命と人権が奪われたという事実への主体的責任を問うのは無理がある。

(3) 日本政府の「事業」への主体的責任の有無については、当時の政府が北朝鮮の実情に関する情報をどの程度把握していたかに拠る。仮に当時の北朝鮮が「地上の楽園」に程遠かったということを知りながら日本政府が確信犯的に「在日」を同国に送り込んだとしたら、政府の主体的責任は甚大なものでしょうけど、現時点ではそのことを証明し得る歴史的事実は確認されていない。

(4) よって、いま判明している事実関係をもって、日本赤十字社が日本政府と「グル」になって在日朝鮮人を強制送還するために「帰国事業」を行ったとは言い難い。

 拙サイトの「帰国事業 参考資料」のページで、「モーリス・スズキ氏の発掘文書をめぐって」(仮称)と題して、今までの議論の流れを紹介したいと思っています。当該ページでは、本掲示板のいくつかの投稿についても紹介・引用させていただきます。ぼんくらおじさんご紹介の年表についても、何らかの形で掲載させてもらうつもりです。編集内容につきましては私に一任させてもらいます。特に異議が無ければ、この後早速編集作業に入らせてもらいますが、皆さん、どんなものでしょうか?


(これより後に【付記】と断り書きされた文章が続きますが、本稿とは直接関係の無い話題なので省略します。)


  [参考資料3] 朝鮮総連の責任--萩原遼氏の著作から読み解く

ぼんくらおじさん、鍋山さん、まことさん、解法者さん、その他のみなさん 
投稿者:
バッジ  投稿日: 9月28日(火)10時56分53秒
くどいようですが、萩原遼著『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文藝春秋刊)に眼をお通し頂けましたでしょうか?

同書は、「北送」問題や在日運動をめぐって、「当時どうすべきであったか」、「今後どうするべきか」など、総括や実践方針を検討する上で不明確な点や私の現時点での考え方とは大きく異なる内容もあるのですが、北朝鮮問題や北送問題を考えるためにはやはり多くの方に一読して頂きたいと思います。

特に第4章をです。4章の、
8・帰国運動の暗流、9・金日成と韓徳銖の陰謀、10・在日朝鮮人運動と日本共産党、11・韓徳銖の反乱、12・日本共産党派と金日成派の激突、13・路線転換、14・勝ち誇る韓徳銖、15・韓徳銖の報復、16・謀略・帰国運動
あたりは、節の題名からも内容をご想像頂けるように、重大な暴露を含んでいますので。

ぜひ、図書館ででも借りてご一読を(同書は「大宅壮一ノンフィクション賞」を受賞しているので、殆どの図書館にあるはずです)。

楽園の夢破れて 
投稿者:
ぼんくらおじさん  投稿日:10月 3日(日)09時38分57秒
図書館に購入希望を出しておいた本が到着したと連絡がありました。↓

関貴星:楽園の夢破れて 亜紀書房

バッジさんから薦められた萩原 遼「北朝鮮に消えた友と私の物語」をちょうど読み終わるところなので、返すのと交換に上記の本を借りてきます。

「北朝鮮に消えた友・・」を読みますと、「帰還事業」とは、金日成―韓徳銖の陰謀であると書いてありますね。日本共産党との確執もあります。韓徳銖は自分が独裁的権勢を掌握するために、対立する日本共産党民族対策部系の同志を次々とだまして北朝鮮に送っては処刑した・・。「帰還事業」は、このような人権感覚の権力亡者の掌中にあったのか。

モーリス・スズキ教授らの見方ですと、帰還運動の主体となった金日成―韓徳銖の陰謀を見過ごし、二次的・限定的な役割しかしていない日本政府・日赤に全責任を転嫁するもので、歴史家の態度としては正しくないと私は思う。また、金日成―韓徳銖の術中にはまり、その片棒を担った日本の左翼、進歩的文化人等々も、少なくとも幇助犯とか虚偽宣伝・扇動罪(?)くらいの責任はあるのではないかと思います。

日本共産党の党史にはこのあたりのことはどう書いてあるのでしょうね。社会主義者さん、もしご存知でしたら教えてください。

萩原遼「北朝鮮に消えた友と私の物語」 
投稿者:
社会主義者  投稿日:10月14日(木)11時21分37秒
 標記の本、読み終えたけど、なかなか読み応えがありましたよ。萩原遼氏の生い立ちや、天王寺高校定時制でのうたごえサークルの活動、そこでの在日朝鮮人・尹元一(ユン・ウォニル)氏との出会い、赤旗ピョンヤン特派員として赴任した北朝鮮で遭遇した「闇」の数々の他に、もうひとりの主人公、萩原氏に朝鮮語学習の講師を介した金竜南(別名、金民柱)(キム・ヨンナム、キム・ミンジュ)氏の波乱万丈の半生記が登場します。私、第二次大戦直後の済州島蜂起(4.3事件)についても、初めてその全貌を知る事が出来ました。

 後、第4部の、朝連−民戦−総連結成に至る、日本共産党民族対策部と北朝鮮・金日成−韓徳銖(ハンドクス)ラインの暗闘も、初めて知る事が出来ました。その中で、朝鮮総連が結成され、帰国事業が推進されていく訳ですが、当時の「北朝鮮=社会主義」幻想を、左翼もマスコミも大なり小なり共有していた、保守派はそれを「在日朝鮮人の厄介払い」に利用した、その結果「金日成・金正日体制の下に多くの人間を送り込んでしまった」「今から思えば道を誤ってしまった」事は今更どうあがいてもやり直しは効かない訳です。

 問題は『「われわれもあなた方もかつては正当かつ善意の動機で「帰国」促進の立場を取った、だがそれは間違っていた、金日成の策略に乗せられて多くの在日の人々やその家族を悲惨な道へいざなってしまった、その責任を共同で引き受けようではないか」(ある人から頂いたメールの文章より)という立場にどれだけ立てるか』、でしょうね。『「外交」的には正論に見える北朝鮮批判をしてもどこか胡散臭いものを人々が共産党に感じ取るのも無理ないところと存じます。「拉致」問題を最初に国会で取り上げながら拉致被害者家族に少しも信頼されなかった理由の、少なくともひとつはそこにあったのではないのでしょうか。』(同上メール文より)

 またその部分にメスを入れる事で初めて、『そのことが、日本共産党について不透明性を感じる人、つまりは小むずかしい理論をかざし、しかも分かりづらい、見えない部分があるといった感覚で受けとめられてきたことへの一つの「回答」となります。民主主義的変革をかかげながら結局はあの旧ソ連邦のような社会主義社会に日本を引きずり込んでいく政党といった「見方」に対しての「回答」となります。悪い意味をすべて包含した「革命政党」というイメージを完全に払拭することになります。なにより、社会主義・共産主義といえば旧ソ連邦であり、中国、あるいは北朝鮮であるといった「見方」から、共産主義思想を解放することに』(「夢・共産主義」第7章より)なると思います。

 後、素朴な疑問。萩原遼さんは、北朝鮮における社会主義国家から個人独裁王朝への変質は、'67年5月の朝鮮労働党第4期15中総(第15回中央委員会総会)における金日成派のクーデターがその転機になったと標記著書には書いているのですが、関貴星著「楽園の夢破れて」(亜紀書房)の中には「'60年代初頭、或は建国当初から北朝鮮は変質していた」というような記述も見られます。果たしてどちらが真実なのだろうか?

 後もう1本別の話題をアップする予定でしたが、ああ、もう時間が無くなりました。こちらは後日別途アップします。

  [参考資料4]  帰還事業を巡る関係資料リンク(順不同)

  • <在日コリアン関係年表>※注:青字は編集者によるフォント変更。

    1945年8月15日 第二次世界大戦終結。朝鮮解放

    1945年8月24日 浮島丸爆沈事件
    1945年9月   各地に国語講習所が生じ在日朝鮮人の民族教育開始  
    1945年10月15日 在日朝鮮人連盟(朝連)結成
    1945年11月16日 朝鮮建国促進青年同盟(建青)結成  
    1946年1月20日 新朝鮮建設同盟(建同)結成  
    1946年3月   建国工業学校、建国高等女学校(大阪)創立  
    1946年4月4日 「国語講習所」等が上・中・下の三年制初等学院として編成。初等教育開始  
    1946年4月5日  金剛学園(大阪)の母体である第一、第二ウリ学校開校  
    1946年9月20日 京都朝鮮人教育会設立。京都韓国学園の起源  
    1946年10月3日 在日本朝鮮居留民団(民団)結成。建同は発展的解散、建青は存続
    1946年10月5日 東京朝鮮中学校創立。中等教育開始。学生41000人  
    1946年11月20 日 GHQ、「朝鮮人の地位及び取り扱いに関する総司令部渉外局発表」  
    1946年12月15日 GHQ、朝鮮人の帰還計画を終了。帰国140万人、残留53万人  
    1947年3月   トルーマン・ドクトリン=東西冷戦の幕開け  
    1947年3月31日 日本政府、「教育基本法」及び「学校教育法」公布施行  
    1947年4月   建国学校、校名を建国中学校と改称
    1947年4月12日 文部省学校教育局長回答「朝鮮人児童の就学義務について」  
    1947年5月2日  外国人登録令・同施行令公布、即日施行  
    1947年5月13日 京都韓国学校の前身、京都朝鮮中学校開校。(9月に京都府知事認可)  
    1948年1月24日 文部省学校教育局長通達「朝鮮人設立学校の取扱いについて」
    1948年3月31日 山口で学校閉鎖令に対する最初の抗議行動  
    1948年4月   建国学校に高等学校設置
    1948年4月5日  大阪、兵庫、岡山の各知事、朝鮮学校閉鎖令発令  
    1948年4月24 日 兵庫県の朝鮮人、学校閉鎖令撤回を求める集会。知事、閉鎖令を撤回  
    1948年4月25日 米占領軍、阪神地区に非常事態宣言発令。朝鮮人を多数検挙  
    1948年4月26日 大阪府庁前で2万人朝鮮人集会。警官隊の発砲で金太一少年死亡  
    1948年5月5日  朝鮮人教育対策委員会と文部省の間で覚書交換  
    1948年5月6日  文部省学校教育局長通達「朝鮮人学校に関する問題について」
    1948年6月4日  大阪朝鮮人教育問題共同闘争委員会と大阪府知事が覚書交換  
    1948年8月15日 大韓民国樹立
    1948年9月9日  朝鮮民主主義人民共和国樹立
    1948年12月10日 国連、世界人権宣言採択  

    1949年3月1日  大阪で私立朝鮮学校24校設立認可を獲得  
    1949年4月   建国小学校設立
    1949年5月31日 白頭学院、文部省から財団法人認可。この日を創立記念日とする  
    1949年9月8日  日本政府、朝連と民青(在日本民主青年同盟)を解散させ、財産を没収  
    1949年10月19日 日本政府、朝連系朝鮮学校に対し「学校閉鎖令」発令。白頭学院のみ認可  
    1949年10月30日 金剛学園、閉鎖  
    1949年11月1日 文部省事務次官通達「公立学校における朝鮮語等の取扱いについて」:日本人学校での朝鮮人に対する民族教育を禁止 
    1949年11月4日 日本政府、朝鮮学校に対し「改組令」  
    1949年11月5日 大阪府知事、大阪朝連学園の設立認可取り消し。24校に閉鎖命令
    1949年11月15日 文部省通達「朝鮮人私立学校の設置認可について」
    1949年11月25日 文部省通達「朝鮮人児童・生徒の公立学校受け入れについて」
    1949年12月10日 東京都内の朝鮮学校、都立に移管  
    1950年3月14日 財団法人金剛学園認可(3月30日、学校名を「金剛学園」と改称)  
    1950年6月25日 朝鮮戦争開始(〜53年7.27)
    1950年7月1日  大阪市立西今里中学校開校
    1950年12月28日 大村収容所発足  
    1951年1月9日  在日朝鮮統一民主民族戦線(民戦)結成=日本共産党内に「民族対策部」  
    1951年3月   白頭学院、一条校として学校法人認可  
    1951年9月8日  サンフランシスコ講和条約=旧植民地出身者は日本国籍を離脱  
    1951年10月4日 出入国管理令・出入国管理庁設置令公布
    1952年1月18日 韓国、「平和ライン宣言」(李ライン)  
    1952年3月28日 外国人登録法公布  
    1952年4月10日 大阪朝鮮高級学校創立  
    1952年4月28日 日本政府、朝鮮人子弟は「恩恵」として日本人学校入学を認める方針表明  
    1952年4月   サンフランシスコ講和条約発効  
    1952年4月30日 戦傷病者戦没者遺族等援護法公布。

    1953年1月   日教組、第二回教研大会で初めて朝鮮人教育問題を討議  
    1953年2月11日 文部省、朝鮮人子弟の義務教育学校就学は国内法厳守を条件とする旨通達  
    1953年3月25日 内閣法制局「公務員に関する当然の法理として、公権力の行使または国家意思の形成への参画に携わる公務員となるには日本国籍を必要とする」との見解
    1953年5月18日 京都朝鮮学園、初めて学校法人として認可 
    1953年7月27日 朝鮮戦争休戦協定調印  
    1953年10月15日 第3次韓日会談で久保田妄言  
    1954年4月8日  金剛中学校開校  
    1954年4月26日 東京韓国学校創立  
    1955年3月31日 東京都立朝鮮人学校廃校  
    1955年4月1日  東京都知事、東京朝鮮学園を学校法人認可  
    1955年5月25日 在日本朝鮮人総聯合会(総聯)結成  
    1956年4月10日 朝鮮大学校創立
    1957年4月8日  北朝鮮から第一次教育援助費及び奨学金送付  
    1958年4月4日  学校法人京都韓国学園設立、京都韓国中学校  
    1959年12月14日 北朝鮮への第1次帰国船、新潟出港  
    1960年4月11日 金剛高等学校開校  
    1960年4月19日 韓国:学生革命。李承晩大統領打倒  
    1961年5月16日 韓国:軍事クーデター
      
    1961年8月31日 大阪市立西今里中学校廃校、中大阪朝鮮中級学校として発足
    1962年11月3日 神奈川朝高生、日本の高校生に殺害さる(法政二高殺人事件)
    1963年4月16日 京都韓国高等学校併設開校  
    1963年5〜6月 朝高生に対する集団暴行事件多発 
    1963年     力道山死亡  
    1965年1月7日  韓日会談で「高杉発言」  
    1965年6月22日 「日韓基本条約及び諸協定」調印
           −韓国は「韓半島における唯一合法政府」。「朝鮮」は符号。
           −法的地位協定:「韓国」籍を認定し、協定永住権を与える。 
    1965年12月28日 文部省次官通達「朝鮮人のみを収容する教育施設の取扱いについて」
    1966年1月2日  在日朝鮮人2名、初めて北朝鮮への往来実現  
    1966年4月1日  自民党、外国人学校法案の構想を表明  
    1967年4月1日  永住権取得在日韓国人に日本国民健康保険法を適用  
    1967年4月21日 日本赤十字社、北朝鮮への帰国協定の打ち切り通告
    1967年5月24日 総聨第8回全体大会(〜26日)
    1967年9月9日  文部省通達、「朝鮮大学校の取扱いについて」(認可を抑制)  
    1967年10月28日 北朝鮮への第154次帰国船最終船が出航。約8年間で8万8611人  
    1968年2月10日 金嬉老事件

    http://www.isks.org/jhtml/hist/jp10-60.htm より引用


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