アフガン・イラク・北朝鮮と日本 《掲示板の論点12》 靖国問題−5度目の小泉参拝を契機に |
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[論点解説] | |||||||||||||||||||||||||||||
小泉首相が、'05年10月23日に、首相就任以来5度目の靖国公式参拝を行い、国内の反戦平和勢力や中国・韓国・欧米諸国など諸外国の世論がそれに懸念を表明しました。拙サイトでもこの小泉靖国参拝を巡って議論が巻き起こりました。 此処では、靖国(参拝)問題に関する過去の投稿を紹介した後、今回の参拝を巡る議論の流れや特徴的な投稿を幾つかをピックアップして掲載しています。
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●靖国神社主要施設の解説 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』−「靖国神社」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE ※但し適宜添付の脚注は当HP編集者によるものである。
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アフガン板での過去の投稿より ('04年1月、'05年5・6月) | |||||||||||||||||||||||||||||
靖国神社は断じて「慰霊」「鎮魂」施設などでは無い 投稿者:社会主義者 投稿日: 1月 4日(日)09時14分26秒(2004年) 小泉首相が元日に靖国参拝 中韓両国が強く反発 現在、日本遺族会が組織しているのは全遺族の約半数でしかない。日本遺族会の方針に飽き足らない遺族の方々はキリス 「ボケと突っ込み」のマッチポンプ 投稿者: 社会主義者 投稿日: 5月26日(木)09時17分32秒(2005年、以下同じ) ・小泉首相との会談中止、中国副首相が急きょ帰国へ(読売新聞) 靖国問題を考える上での参考資料 投稿者: 社会主義者 投稿日: 6月 1日(水)10時06分23秒 靖国参拝問題やミンダナオ島の元日本兵生存報道(こちらはガセネタの気配が濃厚になってきたが)でもまたぞろ、「靖 |
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アフガン板での今回の投稿より ('05年10月) | |||||||||||||||||||||||||||||
断固抗議!<s>×ポチ小泉猪×</s>の靖国参拝&10/23『戦後60年-シンポジウム「靖国神社と追悼」』のお知らせ 投稿者: 原 良一 投稿日:10月17日(月)12時25分18秒 ↑ ポチ小泉猪靖国参拝への抗議声明各種 投稿者: 原 良一 投稿日:10月18日(火)22時32分37秒 本格投稿する時間がないのですが、沈黙するのも良くないので、ポチ小泉猪の靖国参拝に対する抗議声明を紹介します。 ポチ小泉猪靖国参拝への抗議声明各種‐2 投稿者: 原 良一 投稿日:10月19日(水)23時43分7秒 昨日に引き続き、ポチ小泉猪の靖国参拝抗議声明です。 大阪高裁 投稿者: Jay 投稿日:10月18日(火)23時59分22秒 靖国神社参拝の件は、その判決書において傍論に述べたもの。 大阪高裁判決の要旨(毎日新聞記事) 投稿者: 社会主義者 投稿日:10月20日(木)00時30分41秒 (引用開始) 靖国解体企画の声明 投稿者: 社会主義者 投稿日:10月20日(木)00時32分7秒 (引用開始) 「民衆の戦争責任」とか 投稿者: まこと@徒然板観察者 投稿日:10月20日(木)09時33分29秒 最近、深夜労働が増えて纏まった投稿をする時間が無いのですが・・・。 「靖国参拝は無意味な挑発」NYタイムズ社説・全訳(属国のビーチガール) 投稿者: 社会主義者 投稿日:10月20日(木)23時58分8秒 ※「属国のビーチガール」というサイトに、NYタイムスの靖国参拝問題に関する社説(日本語訳)がアップされていたの 元・自民党総裁の靖国神社廃止論 投稿者: まこと@出先 投稿日:10月21日(金)08時03分36秒 戦後首相を歴任した石橋湛山が戦後直後に著した靖国神社廃止論↓です。 「東アジア共同体」牽制策としての靖国参拝? 投稿者: 社会主義者 投稿日:10月22日(土)00時46分30秒 靖国問題について、「日本vs中国・韓国」以外の立場から解説しているサイトの論考を紹介しておきます。 靖国問題での立場と見解 投稿者: 原 良一 投稿日:10月22日(土)01時03分4秒 コピペばかりでお茶を濁していましたが、そろそろ自分の文章で、靖国神社問題を書かないといけないと思っていたと 靖国史観だけの問題ではない。 投稿者: 管理人 投稿日:11月 9日(水)10時32分56秒 >>靖国問題での立場と見解 投稿者: 原 良一 投稿日:10月22日(土)01時03分4秒 |
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「靖国神社と追悼」シンポジウム参加報告 ('05年10月23日、原良一さん作成) | |||||||||||||||||||||||||||||
記 録:原 良一 (はらりょういち、戦争責任資料センター会員)
本稿は10/23のシンポジウムでの各講師の発言を、当日の私のB5ノート5ページ分のメモを元に、 ICレコーダーでの録音と対比して書き起こし、再構成した当日の発言の要旨です。
司会(上杉聰日本の戦争責任資料センター事務局長) 今年は戦後60周年、中韓で3〜4月に激しい反日デモ、総選挙でも争点化できず「靖国隠し」で選挙、選挙大勝後、秋季例大祭に合わせ、外交日程もにらみ10月17日参拝強行、大阪高裁での「違憲判断」で「私的参拝」前面に出すも、強い抗議、盧武鉉韓国大統領は来日取り止め、日中首脳会談も当面開かれずが続く。 シンポジウムの「靖国神社と追悼」の命名理由は、「靖国神社は追悼の場ではない」ことを強調するため。 靖国不可なら、代案は? で、午前の資料センター総会でも激論。無宗教の追悼施設作る対追悼施設自体を作るべきでない、もっと工夫すればいいのでは? と議論まとまらず。 1.田中伸尚氏の講演「靖国訴訟の射程」 戦後歴代25人の首相がいたが、司法の違憲判断が出た後も、違憲行為を2回も繰り返すのは、小泉のみ!憲政史上も異例な首相、政治責任を問うべきも、ジャーナリズムより批判の声なし。とはいえ、戦うことを止めるのが負けなので、戦い続ける。今日は、三つのテーマを話す。 一つ目は、大阪高裁の違憲判断後の報告集会でのエピソード。今回の判決は、04年4月の福岡亀川判決よりはるかに精緻で踏み込んだ内容の、1万字に及ぶ判決で高く評価されるべき。報告集会でのテーブルに「小泉参拝違憲」「勝訴」2枚の紙が貼られていた。 これに台湾人原告の一人から「勝訴の表現は納得できない。合憲か、違憲かは日本人の間でのみの問題、台湾人にとっては、戦時動員され、殺され、死後無断で合祀されて被害を受けた点にあるので、被害を認めない今回の判決は勝訴ではない。勝訴と言っていては、アジアの理解は得られない」との異議が出され、集会に出席していた徐勝(立命館大教授、企画火傷)も「まったく同感である」と続き、台湾人の代表のジワス・アリ(高金素梅)も「違憲は日本人のみの問題、台湾ではさして重要ではない」とダメを出し、「勝訴」のビラは撤去された。 ・高金素梅(?南語:Ko
Kim So・-mui, 1965年9月21日-)、タイヤル族名吉娃斯阿麗(チワスアリ) <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%91%E7%B4%A0%E6%A2%85>(Wikipedia版) (↑リンクだとエラーになるので、コピペしてください) 靖国問題はとかく、政教分離、首相参拝の可否のみの語られがちだが、政教分離だけでは解決できない。植民地出身者にとって、支配され、戦争に動員され、殺され、戦後無断で合祀され、加害者と一緒に祀られる「靖国被害」であり、人格権、文化権の侵害であり、首相の参拝の有無に関わらず発生している。小泉首相の参拝は、新たな加害、被害を生み出していることになる。 そのような限界はあっても、大阪高裁の判決は、40年に及ぶ靖国訴訟のある種の到達点といえ、三つのポイントがある。即ち、@思想良心の自由、A信教の自由、B固有の文化の尊重である。 @の思想良心の自由に関して、新たな判断が下された。従来の「公権力による強制の排除、沈黙の自由(どう考えているかを語らなくてもよい内心の推知)」の保護に加え、「思想良心の形成への圧迫と干渉の禁止」が示された。Aの信教の自由に対しても、同様に従来の公権力の強制の禁止に、圧迫と干渉の禁止が加えられた。Bの固有の文化の尊重とは、各民族や個人による独自の戦没者の追悼、祀りの方法に公権力の介入を排する自己決定権の尊重である。 結論として、靖国による遺族の諒解のない無断合祀とその取り下げの拒否、死者の国家管理の拒否につながる判決であり「メチャメチャ画期的な判決ですわ」(大阪の弁護団)であった。 それでも、上記被害の救済自体は拒否しており、裁判自体は敗訴(形式上は被告国側の勝訴)であるが、もし勝っていれば、違憲が判断から判決になり、小泉首相が、損害賠償に応じなければならない事態になる。これを受けた原告の遺族は合祀取り下げを訴える訴訟の方向に向かっている。こういう判決を導いたのは、国境を越えた被害者の訴えに司法が応えた形である。 総理大臣の靖国参拝に対する訴訟は、1985年の中曽根首相の「公式参拝」以来だが、今回の訴訟の特徴は三つあり、一つは、沖縄を含む植民地や侵略された国や地域の住民が、初めて原告になったことにある。いわば訴訟の広域化、「アジア訴訟化」にある。01年の小泉就任直後の「GUNGUN裁判」では、合祀中止を求める「合祀絶止」が掲げられているが、それと重なり合う。 もう一つは「靖国被害」、無断で合祀され、加害者と一緒に祀られる、取り下げ要求が容れられないことが問題である。争点は、従来憲法20条、13条(人格権)の侵害にプラス19条が新たに加えられた。戦没者を祀る権利は個人の決定権に属し、国家に奪われないとの主張が、今回初めてなされた。「国のための死者」の奪回が目的であった。三つ目の特徴は、靖国神社を初めて被告にした点にあった。宗教団体を被告にするかどうかは、殉職自衛官の護国神社への合祀をめぐる裁判で問題になったが、この時は信教の自由の、祀る自由対祀らない自由の衝突する宗教裁判化を危惧して、神社を被告にするのは回避されていた。 今回の訴訟では、「特定の宗教団体が、国家から特別の権益を受けてはならない」という憲法20条第一項の規定に基づいて靖国神社を被告にした。靖国側もその弱点を自覚していて大変神経質であり、裁判での証人質問でも、憲法学者に多くの質問を重ねていた。彼らの一番の気がかりは、無断合祀であり、それが裁判になったらどうするか、訴訟になれば損害賠償になるのだが、賠償が成り立つのかどうかに、物凄く神経質になっていた。 三つの特徴を持った靖国訴訟は、最終的には合祀の取り消しが実現するかを射程にし、追悼は個人の権利であることを獲得することを目指すものである。 小泉の靖国参拝を受けて、10月19日の共同電によると、台北で日韓台沖の遺族による国と靖国を被告とする合祀取り下げ訴訟が起こされることが決まったという。 司会(上杉氏) これまで靖国神社といえば、A級戦犯など、先の戦争を認めるかどうかが争点だったが、もう一つ憲法20条「特定の宗教を利するものではないか」が争点だった。これに新たに「追悼をするのは、個人の権利であって、いかなる他者が介入すべきでない」の憲法19条、一方的に合祀したことも問題だということが今回出てきた。 2.内海愛子「アジアを歩いて感じたこと」 アジア太平洋戦争での日本軍の戦死者240万人の内、半数近い116万人の遺骨が収集されず放置されている。その内60万人程度が収集可能であるとされているのに…。日本人は、なぜ遺骨に執着しないのか? ニューギニア島西部にマノクワリ(旧名ホーランディア)という町があり、旧日本兵の遺骨が放置されている。第二次世界大戦中、ホーランディア壕には約5000名の日本兵が立て籠もっていた。壕の隣には、厚生省によって建てられた碑があるが、今でも歯や、大腿骨など遺骨が見つかっている。 さらにマノクワリのすぐ北のビアク島では、最近見つかったカマールピア(5つの部屋)と呼ばれる鍾乳洞がある。1m四方ほどの小さい入り口を、這って入ると五つに分かれた洞窟があり、そこに日本兵の頭蓋骨が並べて安置されている。飯盒や歯磨きがついたままの歯ブラシ、石鹸箱など、生活用品レベルの遺品も多数残されている。 アジア太平洋戦争の最前線を歩いてみると、地元の住民の戦争被害はまず問題にしなければならないが、同時に、なぜ日本兵の遺骨は戦後半世紀に渡って放置されてきたのか、との疑問が生じてきた。遺骨の収集に熱心でない日本と対照的に、アメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争でのMIA(戦時行方不明者)、POW(戦時捕虜)の遺骨収集に極めて熱心で、米朝国交交渉でも重要な条件になっている。アメリカのナショナリズムや国家観の反映であり、同列には論じられないが、遺骨収集への異常とも思える執念に見られる個々の兵士の尊重が、捕虜虐待にとりわけ厳しかった戦犯裁判の動機でもあった。 日本が遺骨を放置して顧みない理由の一つに靖国神社の機能があるのではないか? 遺骨がなくても、返らなくても、「靖国の神」になったことで、遺族を沈黙させ、満足させる、親族を死なせて、遺骨も回収しない国家権力への批判を封じるという機能である。 靖国神社が抱えるもう一つの大きな問題が、戦争による死を、合祀される「名誉の戦死」と、逃亡や自殺が原因で合祀されない不名誉な「死」とに、分断し、遺族を沈黙させる点にある。 日中戦争中の1937(昭和12)年10月15日司法省(現法務省)通牒によって、従来戦死者も戸籍上、一般の死者と同じ「死亡」とのみ記載されていたものを、「名誉の表彰たる『戦死』と記載」されるよう改めた。さらに翌38年6月2日戦傷死についても「○○付近の戦闘に於いて受傷、△月△日××に於いて死亡」と記載することが認められた。こうして、戸籍に戦死、戦傷死、ただの死亡という序列ができ上がってしまったのである。 インパール作戦時、「自決すれば、名誉の戦死として扱う」という師団長訓示が出されたのも、上記の戸籍の規定が念頭にあり、兵士は捕虜になることを許されず、「名誉の戦死」を強いられることになった。ミンダナオ島で投降した小島清文氏も(元海軍少尉、戦艦大和乗員、戦争体験を掘り起こす会代表、中帰連のサイト上の略歴では、ルソン島で降伏となっている)「(日本の軍人が投降して)捕虜になることは、男が女になるより難しい」と述懐している。 一昨日開かれた「遺骨と戦死者のための集会」でも話したが、戦後の1952年6月16日「海外諸地域に残存す戦没者遺骨の収集及び送還に関する決議」で、遺骨の速やかな収集、送還が決議されたが、遺骨収集を政府に義務づける法律はなかった。1959年3月3日には「未帰還者に対する特別措置法」によって、未帰還者に対して厚生大臣が死亡認定の宣告ができるようになり、これを「戦時死亡宣告」と称し、失踪などによる一般の行方不明の死に対して特別扱いするようになった。 名誉の戦死を強いられる将兵、その戦死と同じ扱いを得られる戦時死亡宣告と、不名誉な死との格差は歴然である。旧日本軍将兵と遺族に対して、沈黙を強い、時に名誉の感覚をくすぐり、また不名誉の感情を押し付けて、沈黙を強いる。こういう機能が、靖国にあったのではないかを再度考える必要がある。 そして59年に戦時死亡宣告が始まるのとほぼ同時に、戦犯の靖国への合祀が始まっている、という政府による戦争の処理が行われている。 <http://wwwhakusyo.mhlw.go.jp/wpdocs/hpaz195901/b0122.html> ・中国残留孤児らの「戦時死亡宣告」とは?(2002年12月25日(水)「しんぶん赤旗」より) <http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-12-25/021225f-aq.html> 司会(上杉氏) 自分自身、アジアの被害者の問題で取り組んできたが、自国民たる日本人の死をここまで軽く扱う日本の国家に心底怒りを感じる。追悼とは、亡くなったことをいかに悲しむかにある。靖国神社が、追悼施設でないことは、高橋哲哉氏も「靖国問題」で完全に論証している。戦死を褒め称えるための施設であって、彼らの死への経緯にまったく無関心であった日本社会の構図が、内海氏の発表によって明らかにされたと思う。
靖国をめぐる世論の動向をどう考えるか? ナショナリズム、排外主義台頭の起爆剤となりうる。一方で、80年代に比べ、首相の靖国参拝に対する世論の支持は低下している。中曽根首相の終戦記念日公式参拝が行われた後の1985年10月の読売新聞の世論調査では、参拝賛成が51.7%、反対の24.9%の2倍以上圧していたが、21世紀以降、参拝反対が急伸して、今年7月の毎日新聞の調査では、反対が51%、賛成が39%にとどまった。そして参拝賛成派にも、中韓など周辺国への配慮を求める声が増えるなど、周辺国に配慮すべしとの意識の変化があった。 一方で、逆の方向の意識の微妙な変化も起きている。今年の8月15日の靖国の参拝者は、今年20万5千人に達し、昨04年の6万人を大きく上回り、日中は神門から拝殿に進むのに1時間もかかる大混雑だった(同年8/22付神社新報)。これには、遺族会、戦友会、宗教右翼に組織されている人々もあるだろうが、そうではない、庶民のナショナリスト、従来の自民党の支持基盤でない人も含まれているのではないか、と考える。 先の戦争に対する認識では、今年8月15日の毎日によると、「間違った戦争」が43%で過半数割れ、「止むを得ない」が29%、「わからない」が26%である。2000年のNHKの調査では、侵略戦争が51%だったので間違い論が後退している。 もう一つ無視できないのが若者の変化で、「論座」05年3月号で書いたが、01年までは、高齢者ほど首相の靖国参拝を支持する傾向があった。それがここ数年若年層に支持が広がり、戦争観の変化とも連動していて、前述の00年のNHKの調査での侵略戦争が51%で、82年の調査と数値的にはほとんど一緒だったが、82年では高齢者ほど侵略と考えず、若者が侵略と考えていたのに対し、00年ではそれが崩れ、若者層に「わからない」の回答が増えている。05年の毎日の調査でも、20代で「間違った戦争」と考える人が少ないという傾向が現れている。 つまり、中国や韓国から侵略戦争と認定されることへの、ためらい、反発、違和感が、若い世代に台頭してきている。 この原因は、戦後処理の先送りのツケが回り、戦争体験世代の減少が上げられる。また電通が1981〜2年と、1999〜2000年に実施した国際調査を対比すると、自衛隊への信頼度が他国並みに上昇しており、「戦争はコリゴリ、軍隊はイヤ」という世論が減少している。 小泉首相の外交と内政 小泉首相の対外路線自体は、93年の細川政権、95年の自社さ村山政権の植民地支配と、侵略戦争への謝罪路線を継承している。今年8月15日の戦後60年首相談話では、「植民地支配と侵略」「痛切な反省と心からのお詫び」の村山談話の文言の継承に加え、「内外のすべての犠牲者」と初めて「外」の字も加えられてもいる。 つまり、小泉首相は、対外的には植民地支配と侵略への謝罪を述べながら、国内では無反省に靖国参拝を続ける極端な二重基準を行っていることになる。しかしその参拝内容は、大阪高裁の判決を意識してか、公的惨拝色を極力薄めるものとなっている。 ・戦後60年小泉首相談話(全文) <http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/koizimudannwa.htm> これは、公的参拝路線の挫折を意味するものであり、保守・右翼内の復古右派にとっては、靖国神社の国家護持路線に続く敗北である。最近6月14日の政府答弁では、昭和天皇の靖国参拝までもが私人としての参拝だったと書かれていて、復古右派は切り捨てられる傾向にある。 靖国神社の動揺と衰退と過激化の悪循環 靖国神社の動揺は、支持基盤の衰退という形で顕在化してもいる。会員の高齢化による死亡や病臥で遺族会は衰退し、より高齢の戦友会はほぼ消滅、活動を停止した。慰霊祭を行っていた戦友会の消滅や、不況による企業献金の減少で、ここ数年の靖国神社の年収は、推定で10億円程度、1985年の1/3程度にまで落ち込んだ。 また靖国神社崇敬奉賛会は、「御創立130年記念事業」のため、50億円を目標にした募金活動を行ってきたが、2003年度末の期限で30億円しか集められず、目標を40億に引き下げて募金活動を1年延長したが、結局36億円にとどまった。靖国発行の機関紙「やすくに」8月1日号の「崇敬奉賛会だより」によると、会員は死亡などで毎月平均1000人が退会しており、ピークで9万人の会員数は、現在は8万人の維持もままならないという(今年4〜6月までの新入会は約1000名)。 このような大衆的基盤の脆弱化に伴って、靖国神社は、次第にイデオロギー化、過激化が強まっており、90年代後半以降は、戦争賛美一色になっている。特に日米戦の開戦責任をアメリカに押し付ける「靖国史観」が目に余るほどである。日本共産党はこの状況を「“靖国史観”とアメリカ」(日本共産党中央委員会出版局)というブックレットにまとめ、英訳の上、全米の各マスコミに送りつけた。今回の小泉参拝に対して、ニューヨーク・タイムス、ワシントンポスト、ロサンゼルス・タイムスと大手メディアから批判的な主張が相次いだのは、その影響があったかもしれない。 なぜ続ける小泉参拝 この状況で小泉首相は、なぜ靖国参拝にこだわり続けるのか? ナショナリズムの高揚はあるが、現在の日本では、反米ナショナリズムは厳しく抑制されている。つくる会が典型で、今年の扶桑社版は、前回に比べ穏健保守路線になり反米色が抑制されている。反米を掲げた小林よしのりや西部遷らは会を去った(追われた)。 反米を抑圧されるナショナリズム感情の欲求不満が、中国・韓国に向けられる傾向が高いが、対米、対中関係を重視する自民党など保守本流も危険視する傾向が高まっていて、反米に結びついて日米関係を不安定化させると危惧されている。 もう一つは、過度の靖国賛美に固執することは、国論が分裂している問題には深入りできない天皇や皇室を軽視させる矛盾ももたらすことになっている。 皇室は、75年の昭和天皇の靖国参拝を最後に、78年のA級戦犯合祀が明るみに出て国際問題化して、参拝ができなくなっており、現天皇になっても一度も行っておらず、一回だけ栃木県の護国神社に参拝した際も、事前にA級戦犯が合祀されていないことを確認する徹底ぶりである。靖国にこだわれば、こだわるほど皇室は脇へ追いやられるというジレンマがある。 さらに、日中関係の悪化を恐れる財界の意向も大きい。読売新聞は今年6月4日付の社説で、小泉首相の靖国参拝の反対へ転じた。そして私的参拝を主張する小泉に「私的参拝であるなら、参拝の方法も考えるべきではないか。昇殿し、『内閣総理大臣』と記帳するのは、私的参拝としては問題がある」と批判した。結果として10月17日の参拝は、この批判に影響されたものとなった。 一方靖国神社では、今年6月29日東京裁判でA級戦犯全員無罪を主張したパル判事を顕彰する記念穂を建設しており、意味深長な示唆になっている。 司会(上杉氏) A級戦犯の合祀は、東京裁判を受諾したサンフランシスコ条約の違反ではないかの、アメリカからの批判や圧力が出始めている。 (休憩) 第二部パネルディスカッション 司会(上杉氏) 各パネリストによる相互討論に移ります。 吉田氏より田中氏への質問 吉田Q)自衛隊の殉職者の慰霊はどうなっているのか? 特に合祀訴訟後の、隊友会主催の慰霊祭は今でも行われているのか? 田中A)合祀訴訟のほとぼりが冷めた後で一部再開している。 1972年にキリスト教信者だった殉職自衛官の合祀が行われ、反発した未亡人が73年に訴訟を起こした。それ以前の60年代の中頃から、福岡県以外の九州の全域で、殉職自衛官の護国神社への合祀が行われていた。自衛官の合祀訴訟は、88年の最高裁の原告敗訴で確定したが、その前年の87年から訴訟の舞台となった山口県を皮切りに合祀が再開された。現在も合祀を熱心に行う長崎県、宮崎県とまったくやらない福岡県の色分けははっきりしている。 03年に市谷の防衛庁内に6億円をかけたメモリアルゾーンが作られ、殉職者が刻銘されていると聞いている。 田中氏より吉田氏へ 田中Q)社会認識の分岐点は? ナショナリズムの勃興とそれなりバランス論の対峙状況は? 気になるメディアの動向と影響、その形成の行方。 内海氏より吉田氏へ 内海Q)軍=自衛隊への信頼度がアップする傾向と言われたが、イラク派兵自衛隊の「殉職」時の慰弔金は? かつて産学協同の弊害が言われたが、今は軍学共同が進行していて神戸大や広島大などの例がある。アチェ、スリランカなどの災害援助の現場では、災害派遣の自衛隊とNGOを含む援助団体との共同作業の進行が止まらず、各援助団体は、自衛隊に対してどうヘゲモニーを保つか苦労している。またODAでも軍援共同路線が進行中である。過去だけでなく、現在の問題であり、世論調査をどう読むか教えてほしい。 吉田A)難題が一度に来て、お残り気分(笑)。 メディアの意識や変化という点では、日本の加害報道が90年代後半以降急速に後退している。教科書でも、慰安婦や強制連行の記述が激減している。現在の制度では、検定による削除はできないのに、すべて自主規制である。メディアの支持がなく、そうしないと売れないからでもある。 一方皇室は、生き残り戦略として「開かれた皇室」を志向しており、90年代以降は「皇室外交」、これ自体論理矛盾(皇室の政治介入であり、外務省の外交専権の侵害でもあるので)なのだが、以前は「皇室の政治利用」と批判していた朝日新聞などが積極的に評価・推進している。そして現天皇が、過去の戦争に対して謝罪の意を込めた発言をしたこともある。特に天皇の訪中の際は、以前と逆に、右翼側から天皇の政治利用との批判が出た。 自衛隊の社会的認知は、国際貢献など公的活動を通じても広げられてきた。また広報活動も充実・強化されており、市谷の防衛庁では、毎日午前、午後の2回見学ツァーが行われており、良く訓練された赤いミニスカートの制服の若い女性自衛官が案内している(事前に申し込みとセキュリティーチェックが必要)。 同時に自衛隊員が抱えている問題に、我々がきちんと目を配っているのか? 例えばPKOの自衛官に「派遣ストレス」がある。一般的に3ヶ月危機説があり、派遣隊員を3ヶ月で交代させているのは、そのため。イラクのように周囲を敵に囲まれることで生じる戦争神経症の問題も、実際に戦火を交えている米兵にとっては、特に深刻だろう。 最近自衛官の自殺が急増して問題になっている。自衛官の抱える問題に向き合うことなしに、政府も、国民も安易にある意味「傭兵」扱いしている。それを問い直さなければいけない。 先程、世論調査による国民の意識の変化を説明したが、時代に関わらず変わっていないのは、「有事の際、武器を取って戦うか?」に対する答えで、否、戦わないが、終始変わらず他国の中で飛びぬけて多い。その解釈には異論もあろうが、戦後日本社会が培ったある種の非戦主義ではなかろうか。 田中氏より内海氏へ 田中Q)日本人の遺骨観は? 靖国が遺骨の代替装置とはいえず、遺骨の放置は日本の文化ではないか? 内海A)遺骨の専門家ではないが…。留学生が海外で死んでも、遺骨の日本帰還に拘らない例がある。旧連合国の兵士は、死亡した現地に埋葬される例が多い。例えば横浜市の保土ヶ谷区に日本の捕虜になって死亡した兵士の墓がある。収集するかどうかは、それぞれの選択や宗教観だが、旧日本兵の場合、収集も埋葬もされず、野ざらしで放置されていることが問題なのである。 あるシンポジウムの質疑応答での遺族の発言に胸を突かれた。 「私の父は戦死し、遺骨も帰らなかった。政府の責任を追及したいが、 アジアに対する加害責任を考えると、それに拘ることに罪悪感を覚える」 私は 「それは違う。自国兵の遺骨を放置するような国が、どうして加害の視点を持てるだろうか?」 と答えた。 親族の遺骨に拘る先に、加害の視点が当然出てくる。私たちは被害者意識も中途半端だったのでは…。 ラグアン島に行った時も、住民が回収した遺骨は、自分の背丈よりも高いアルミの大きな箱に投げ込まれていて、定期的に来る収集団が荼毘にしている。 文化や宗教よりも、政府が自国民に対する責任をどう取ったかである。 これは、ニュルンベルク裁判と東京裁判の一番の相違点で、 自国民に対する戦争責任がニュルンベルクでは問われたが、東京裁判では一切論じられなかった。 加害責任を論じるばかりで、被害について考えなかったことが、100万以上の遺骨を海外に放置したまま今日を迎えたのではないか。 遺体を放置する一方で、52年のサンフランシスコ講和条約締結と共に遺骨収集の決議をするが、それよりも「戦傷病者戦没者遺族等援護法(遺族援護法)」を作って、翌年すぐに軍人恩給を復活させ、支給停止中の昭和28年度分も取り戻させるべく法律を改正し、戦犯たちにも支給させていく。戦犯としての拘留期間も支給期間に加算する…。 ・戦傷病者戦没者遺族等援護法 <http://www.houko.com/00/01/S27/127.HTM> 非占領期の措置がなし崩しにされて、戦犯が選挙権なども含めどんどん復権していく一方で、政府が責任を負うべき徴兵、徴用された将兵の遺骨は、靖国への合祀という装置によって責任を放棄したのではないか? 宗教というより、政府の自国民、自国兵に対する責任ではないか。 吉田A)アジア太平洋戦争で、民間人に大量の死者(約12000人、軍は約38000人)が出た最初の戦闘がサイパン島で、主に沖縄からの移住者が、降伏を拒否してバンザイクリフやスーサイドクリフから飛び降り自殺し、最後のバンザイ突撃に参加するなどして「玉砕」した。最近、澤地久枝氏の著作で知ったが、同島陥落直後の帝国議会で、「サイパンの民間人の死者も合祀すべきだ」との議論がなされ、陸海軍各大臣も前向きだったのに、靖国側の反対で実現しなかった(現在も未合祀)。 総力戦の段階では、戦禍は軍民の別なくのしかかる以上、軍民による戦死者の差別や区別をなくしていくのが、戦況に合致した追悼観のはずなのに…。靖国神社の追悼観、戦死者観は日清・日露戦争時代のままである。追悼に値する死者とそうでない死者を常に選別していく。同じ会津藩の戦死者でも、戊辰戦争の戦死者は賊軍なので祀られていない一方、禁門の変、蛤御門の変で皇居を守って長州軍と戦った戦死者34名は祀られている。 このような狭さが、靖国神社の最大の問題だ。もし靖国神社が、生き残りを賭けて本気で改革をする気があるのなら、民間人の戦没者の合祀と、「賊軍」と貶められてきた戦死者の合祀が絶対必要である。 例えば佐賀県の護国神社は、佐賀の乱の刑死者を戦後合祀し「県民的和解」(笑)としている。米国のアーリントン墓地も、現在は反乱軍たる南軍の戦死者も追悼している(原注:墓地の敷地は、「A級戦犯」南軍リー将軍の邸宅を没収した跡地である)。これが国民国家の追悼施設のあるべき姿だろうが、靖国はその段階にすら達していない。今のままでは、国民的追悼の場たりえない。 最近、赤澤史朗氏から非常に詳しい本「靖国神社 せめぎあう〈戦没者追悼〉のゆくえ」(岩波書店)が出て考えさせられたが、靖国神社の追悼観の狭さと古さを強調したい。 田中A)靖国神社の古さが指摘されたが、「変化の兆し」がないわけではない。死者を選別する体質はそう簡単には変わらないだろうが…。 靖国神社の合祀は戦後が圧倒的に多いが、戦後の混乱期で調査がいい加減で、生きているのに合祀された事例も多い。韓国で90年代になって生存合祀が判明し、取り下げを要求していたところ、今年9月になって初めて、それも謝罪を付けて取り下げに応じた。今までは、一旦合祀したものは下ろさない、それが神道の教義であり、宗教観だとずっと拒否していたのだが…。 もう一つは、つい数日前だが100年ぶりに「北関大捷碑」、豊臣秀吉の朝鮮出兵当時、北朝鮮地域で義兵(官軍=正規軍ではない義勇兵)が豊臣軍を破った記念碑が、日露戦争の時日本に持ち去られ、靖国神社に寄贈されていたのを、100年ぶりに返還した。これも今までならまずやらなかったことだ。 《北関大捷碑関連サイト》 ・北関大捷碑(中央日報05.10.12付) ・日本に略奪された「北関大捷碑」が返還へ(朝鮮日報05.3.01付)(赤字は記録者) <http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/03/01/20050301000028.html> ・「北関大捷碑」引き渡し 百年ぶり北朝鮮“帰郷”へ(産経‐共同05.10.12付) 靖国神社、韓国大使館、外務省、返還合意文書に署名 <http://www.sankei.co.jp/news/051012/sha044.htm> 北関大捷碑移送事業(返還運動を主導した日韓佛教福祉協会のサイトより) <http://www.h7.dion.ne.jp/~bankoku/nkb/hokkandaishohi_01.html> ・北関大捷碑「略奪」発言に反発する保守系ブログ 「建設者ノ子孫ニ諮リテ其承諾ヲ得今回還送シ来リタルモノ」原資料写真付で朱書 <http://dreamtale.ameblo.jp/entry-a055ba16ebce6dec87a5436d1c836f5b.html> 両者は、ある種のシグナルではないか、という人もいる。これが、A級戦犯の合祀取り下げにつながるのかどうか? しかしそれに応じると、裁判中の人たちの取り下げにつながって、靖国はガタガタになる危険も大きい。 この靖国の古さと、財政的な問題、基盤の脆弱化が、靖国を存続させるために変化の契機になってきたのか、という気がしないでもない。 内海氏より田中氏へ 内海氏Q)民間人を合祀しない狭さは、靖国にとどまらず、民間人の空襲の被災、戦争被害に対しても補償の対象から外されている。民間人の遺族から、恩給に準ずる補償の要求や訴訟は、戦後起こったのだろうか? 名古屋放送が作った「チエちゃんと空襲」という、杉本さんがドイツの民間の空襲の被害者が、どういう処遇を受けているのかを見にいったドキュメンタリーがある。ドイツでは「空襲も敵弾も兵士と民間人を分けて当たるわけではないので、軍人と民間人では処遇を分けない」と厚労省に当たる役人が明言している。「日本人は、なぜ軍人と民間人の差異をそれほど強調するのか?」と不思議がられた。日本の軍民格差の不当性が、ドイツの側から指摘されている。 これに対して、杉山千佐子氏らの訴訟があったが、現在の戦後補償裁判では、戦災は全国民が受けたのだから等しく我慢せよとの「国民受忍義務論」で敗訴した。元軍人たちには、恩給で手厚く補償されている以上納得しがたい。民間人の戦争被害に対して国の援護体系はどうなっているのか? 田中A)名古屋の杉山千佐子(全傷連=全国戦災傷害者連絡会会長)さんという名古屋大空襲で左目を失った方が、最初に訴訟を起こしたが、先程の「国民受忍義務」の範囲内ということで敗訴した。その後も訴訟の気運は何件かあったが、判例の壁が破れず、被害者は高齢化もあって訴訟に到ってはいない。 ・[戦闘参加者とは誰か](15)(沖縄タイムス、2005年3月20日 朝刊26面より) <http://www.okinawatimes.co.jp/sengo60/tokushu/dare20050320M_01.html> ・「負けぇせん! 〜ある戦災傷害者の軌跡〜」(杉山千佐子氏をモデルにした舞台劇) <http://www11.ocn.ne.jp/~cr21/makeesen.html> また国会でも、社会党があった時代に何回か質問がなされたが、遺族援護法の物価スライドや給付引き上げのための改正は、各党票目当てで満場一致で成立するが、空襲被害への対応は、厚生省‐厚労省、総務庁もまったく後ろ向きで、そもそも約50万とされる空襲被害者の実数自体が把握されていない。軍人、軍属の遺骨を放置することも、民間の戦災被害者に対する対応も「人を人と見ない」態度が戦前、戦後と一貫している。 軍人、軍属に対する分厚い補償と法整備に対し、原爆被爆者援護法の成立も94年11月とはるかに後であり、沖縄も同様、日本政府は、民間の被害者にはまったく冷たく、法制度さえないのが実情。 司会(上杉氏) 司会ではあるが、靖国が追悼施設でない例証として、民間人の空襲の犠牲者も、原爆の犠牲者も靖国神社は祀っていないことが挙げられる。追悼施設なら、民間人の被害者も等しく入れるべきである。あくまで軍に協力した範囲でしか、民間人を入れていない。そこにA級戦犯が祀られるのは、一つの結論であって除外できないのではないか? 先程吉田氏も言及した靖国神社生き残りの助言であるが、なかなか導入はできないのではないか? もう一つ、遺骨の件で、韓国で真相究明が進んでいて、強制連行された被害者の遺骨が推定で1万〜5万体程度、日本に留まっている。韓国は、返還を求めて調査を要求しており、日本もそれに応じて動きが始まっている。韓国の遺族は、親族がどのような経緯で亡くなったかを知るためにも、遺骨を求めている。 拉致被害者の横田めぐみちゃんの遺骨が、本物かニセ物かで世論の関心が高いのも、彼女の死に様、生き様を調べるためには遺骨が基本になる。人を大切にするためには、どうしても遺骨の問題は避けては通れない。我が国が、殺された人にいかに無慈悲であるかを思い知らされた。 これから質疑応答になるが、最後に国立の無宗教追悼施設の建設の是非について議論のまとめにしたい。 ****(記録者の感想)************************************************************* ******************************************************************************** 質疑応答 Q1.伊香俊哉氏(センター会員、都留文科大教授)―
遺骨収集の難問、地元の理解 ― 私自身も、1990年代半ばから中国雲南省で遺骨収集も含む活動に参画している。雲南省は西端の拉孟、騰越で玉砕しており、遺骨が今も残っている。元々ビルマ方面からの侵入なので、生き残りの兵士はビルマに落ちた。ビルマでは戦後50年代から遺骨収集事業が企画され、70年代までには実施された。当時のビルマ政府は軍事政権で対日関係が比較的良好で、日本政府から補助金が出る一方、カチン族の「反政府ゲリラ」からの護衛の名目での協力もあり、遺骨の収集は進展した。 一方中国雲南省に対しては、毛沢東時代から要望書を出しているが、未だに認められていない。80年代になって雲南省の省政府レベルで、関係者の訪問は認めるようになったが、慰霊行為および遺骨の収集は絶対に認めないという姿勢で一貫している。 この条件の下で、当時の部隊の生き残りや遺族が、数年おきのペースで訪中しているが、彼らが戦前そのままの戦争観を持って現地へ行くので、外務省の出先である外弁(外国法事務弁護士)が、トラブル回避のため「現地の人の話も聞け」と現地の被害者や、その親族との対談を設置したりしているが、彼らの話を、渋々白髪三千丈の眉唾気分で聞いているだけのトンデモ姿勢である。 このように80年代から接触は行われたが、慰霊や遺骨収集の話は進まず、何とか慰霊塔くらいは、の話に対して、外弁から、「過去の自分たちの行動を踏まえ、何らかの地元への貢献をしないと理解が得られない」と批判が出て、老朽化した地元小学校を立て直すことにし、関係者が寄付を募り、中央課(?要確認)と折半で負担して実施するなどして、不十分ながらも地元住民感情は、多少は改善されたが、遺骨収集の実現には到っていない。 遺骨の収集は、インドネシアなどでも行われているが、現地の対日感情の厳しさや、その時々の政権の対日関係が良くならないと遺骨の収集は進まないだろう。 内海氏A1. ― 結局は、行く人の心がけ次第 ― 伊香氏の指摘の通りで、本来は遺骨の収集の過程で、かつての戦争が、現地にもたらしたものに向き合う好機である。ところが、戦前の戦争観のままで旧部隊が行くこともあるし、観光ツァー代わりになっている所もある。マノクワリなどでも、遺骨収集は通り一遍で、夜は歌舞音曲の観光旅行状態である。 遺骨収集をどういう形でやるのか? 政権との関係もあるが、行く人たちが、かつての日本軍が現地でどう見られていたかの、事前の勉強会や討論会をしておかないと新たな摩擦を起こすだけ…。 今年政府の遺骨収集関係の予算は、4億7600万円、内遺骨収集に2億4200万円の巨費がついているので、遺骨収集に行く人々には補助が出ているはず。 しかし、これまで東南アジアに行く人々を見ていると、青年団で収集している。国士舘とか、建青館(?不明)の人もそうだと思う。彼らは、かつての戦争観を肯定的に受け継ぎながら収集をすることになるので、アジアへの加害や侵略の歴史が問われることはない。地元住民を「現地ガイド」としてしか見ないので、摩擦も各地で起こしている様子だ。 結局、遺骨の収集に固執するのではなく、その過程において侵略だったかつての戦争に向き合わざるを得ないのではないか? これがポイントである。 上杉氏A1. ― 韓国から遺骨収集への参加希望が ― 現在韓国から出されている要求の中に、遺骨収集に韓国の元軍人、軍属も一緒に参加させてほしいという要望が出ている。遺骨の中には、当然朝鮮人の物も含まれているからだ。外務省はこれを認め、費用の3分の1を負担することになった。遺骨収集も、現地の被害に加え、植民地支配下の差別問題にも目が行くようになれば、変わるのではないか。 Q2.B氏-1 ―
合祀されている台湾人、韓国人の国籍は? ― (本文なし、回答のAと混同するので、A氏は欠番にしています) 田中氏A2-1. ― 植民地支配の意識のまま ― 靖国への合祀されている植民地出身の名前は、創氏改名させられた名前(通名)と、本名で書かれている場合とバラバラである。現在靖国が明かしている、朝鮮、台湾出身者は5万弱とされる。私(田中氏)の父が「死んだら靖国の神にされるのは、耐え難い。名前を消してくれ」と談判に行くと「神道では、一旦神にすると下ろすことはできない」という理由と、「亡くなった時は、日本人であったから」ということを堂々という。 戦後になってから合祀しておきながら、そういうことを言う。それを何人もの人から聞いた。 台湾の人々に言わせると、靖国はまだ植民地支配の意識のままではないかと怒るが、私もまったく同感。 私は、靖国の変革はほとんど絶望的だと思っているが、台湾や朝鮮半島の合祀者は一旦ゼロにして、希望者だけを改めて祀るようにすべきだ。質問の答えは、「死んだ当時の国籍は日本であったから」のこれだけ! Q2. B氏-2 ― 時代は変わっても、死んだらお終いなのか?
― 当時はそうであっても、時代は変わったし、靖国に弔われたくないといっても、国籍を変えてどうという法律はないのか? 死んだらもうお終いなのか? 田中氏A2-2. ― 天皇のための神社の体質は不変 ― おっしゃる通りである。戦後の変化は関係ない。靖国が戦前、戦中の考えを戦後も貫いているのは、神社創建の考え方からして、ここは天皇の神社で、明治天皇の思し召しで作られた神社であって、天皇のために亡くなった人を祀るというのは、創建以来の趣旨であり、変えることはできないからである。 だからそれは違う、戦後1959年から大量の合祀が始まって、台湾、朝鮮の人々が大量に含まれている。結局合祀をするには、靖国にも「調査部」はあるが、遺族一人、一人に出向いて調べるのではなくて、旧厚生省が、都道府県から資料をもらって、自動的に靖国に流してきた。 内海A2. ― 基本的には日本名で合祀 ― 当時の日本軍の中には、台湾人、朝鮮人の軍人、軍属が含まれていて、日本人としての国籍を持つことになっていたので、名誉の戦死の際には合祀された。その時の名前は、基本的には創氏改名した日本名である。しかし、フィリピンの俘虜収容所の所長で、米軍主導のBC級裁判で死刑になった洪思翊(こうしよく、ホン・サイク)は、創氏改名を拒否していたので、朝鮮名で合祀されている。 ・紹介;山本七平著『洪思翊(こう・しよく)中将の処刑』 <http://www.geocities.jp/tamacamat/sonota08.html> ・洪思翊(こう・しよく)将軍(「絞首合格だったよ」など処刑直前のエピソードを紹介) <http://www.tamanegiya.com/kousyoubunn.html> 一旦合祀して、神になり霊璽簿に入ったら絶対に下ろさないのが、これまでの靖国の主張だった。それが今回の韓国からの生存合祀への抗議で、抹消するのでは? の動きになっている。これが霊璽簿なのか、ただの事務名簿なのかは不明確だが…。 上杉A2. ― 自力で歩けぬ、ひ弱い神ですなあ ― 一旦合祀すると、分けられないものになるのでもう出てこれない(笑)というのが、神学上の説である。 よほど無力な神らしい。自分で歩くことも、出てくることもできない(呆)。 Q3.某女(本論に関係ない Q4.関東軍の元兵士の老人 ― 強要自決の扱いは? ― 死者への差別に怒りと驚き。戦友の話を紹介したい。満州の牡丹江で、関東軍で一緒に戦っていた戦友が伝染病に罹った。ソ連の参戦で敗走する際、看護婦から青酸カリを渡され自決を強要された。この種の強要自決を靖国はどう扱っているのか? その戦友の妹が靖国を訪問し泣いているのを見て非常に怒りが募った。 内海A4. ― 自決をすれば、名誉の戦死 ― 日中戦争が広大な地域に拡大し、戦死者の死体が回収できない時、死体がなくても部隊長が死亡の認定をすれば、司法省が、各地の市町村の役場に戦死の通知ができるようになった。 戦後「生きていた英霊の“悲劇”」が多発したのは、戦時中は遺体が未確認・未回収でも死亡認定ができ、日中戦争後、法改正でさらにそれを簡易にできるようにしたため、実際には行方不明後、捕虜になっていた者も死亡認定していたからだった。 青酸カリだけでなく、南方戦線で「転進」=敗走する時、動けない傷病兵を、最初の頃は青酸カリや軍医による毒殺、後半は手榴弾を持たせて自決をさせた。手榴弾が足りなくなると、動けない兵を集めて手榴弾を渡す、この場合は、戦死の扱いになる。先程言った「自決をすれば、名誉の戦死」の事例である。 ・忘れられない戦争の恐ろしさと惨めさ <http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-T11-1.html> 私は、「名誉の戦死」の内実をもう一度調べたい。海外で置き去りにされた遺骨を見ると、肉親がどのように死んだのか? 殺されたのか? なぜ肉親は確認に行かないのか? ということを思って、アジアに対する加害責任は、その中から見えてくるのではないかと思っている。強要自決の詳細は吉田氏に…。 吉田A4. ― 曖昧で、恣意的な合祀基準 ― 私に振られても(笑)。一般的には、その種の「自殺」は戦死に認定して、遺族に不利が及ばないようにしている。全体としては、靖国の合祀の基準は極めて曖昧である。 本来自殺者は合祀されないが、例えば、第二次上海事変の時に、意識不明の状態で捕虜になった空閑昇(くがのぼる)陸軍少佐が、捕虜交換で帰還後、捕虜になったのを恥じて自殺している。合祀の対象外のはずが、世論が軍国美談として称賛し、それを受けて合祀した。 ・上海事変(Wikipedia版) <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89> ・第二次上海事変(Wikipedia版) <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89> (両方とも、リンクだとエラーになるので、コピペにしてください) ・「捕虜・俘虜」空閑昇少佐の自決など捕虜の記述 問題が多いのが、軍法会議の処刑者。敵前逃亡や、上官への反抗で処刑された人たちは、基本的に援護法の対象外だった。しかし70年代に国会で、名誉回復の動きが出て、有名な映画「軍旗はためく下に」(72年、東宝)、原作の「軍旗はためく下に」(結城昌治、中央公論文庫)があるが、ブーゲンビル島で、飢餓の下ジャングルを彷徨していた兵士が終戦で出てくるが、現場の軍法会議や、時にその手続きを省略して現場で射殺されている。 そのような運用に非常に無理のある軍法会議への批判が、国会でも取り上げられ、刑死者も戦死者と同様に扱われるようになった。 とはいえ、基準は非常に曖昧で、自殺でも特攻作戦を立案した大西瀧治郎は、自殺であるが「責任自殺」なる(失笑)概念をでっち上げて、援護の対象にした。基準は極めて恣意的で、今夏のNHKの靖国関連番組でも、靖国側は、合祀の基準を最後まで明らかにしなかった。 内海A4.-2 ― 高麗青年独立党事件 − 自分の持っている資料では、朝鮮人軍属で捕虜収容所の看守が戦死した場合は、1943年くらいまでは、全部合祀されている。ところが、敗戦直前に日本軍に抵抗した高麗青年独立党(ジャワ島中部アンバラワで蜂起し、鎮圧さる)事件で殺された朝鮮人は、変死とされ、合祀の対象外である。関連しての自殺も対象外である。 ・「赤道下の朝鮮人叛乱」(内海愛子、勁草書房、高麗青年独立党に言及) <http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9871311761> 合祀基準が恣意的である上に、天皇に忠誠を誓って死んだ者は、日本人、朝鮮人、台湾人を問わず、合祀をしていた。 田中A4. ― 追い出され、奪われ、殺されての「戦闘協力」で見舞金と合祀 ― 補足の補足で、沖縄戦で青酸カリによる「強制的集団死」が行われ、ひめゆり部隊にもかなりの死者が出ているが、彼らのほとんどは合祀されている。沖縄の場合、民間人の死者が9万5千から10万に及ぶとされるが、援護法を適用するため、軍によって壕やガマ(洞窟)から追い出されたり、食糧を奪われて日本軍、米軍双方に殺された民間人が、軍に協力したと見做され、援護法の対象になる捩れがある。対象者の資料は、各市町村から県、厚生省を経由して靖国へ行き、民間人でありながら「戦闘協力」ということで、見舞金をもらい、合祀された。協力といっても逃げただけ、奪われただけなので、ゼロ歳、1歳といった乳児まで合祀の対象となった。 ・沖縄戦 用語解説「強制的集団死」 ・「沖縄戦戦闘協力死没者等見舞金支給要綱」 <http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt01390.htm> B氏A4.(GUNGUN裁判関係者の飛び入り回答) GUNGUN裁判と生存者合祀で補足。同裁判は、01年に韓国人合祀者が、政府に取り消しと慰謝料をを求めて起こしたもの。02年で2人いて、一人は存命中。取り消しを求めて靖国に行ったところ、「そもそも生きている人は合祀されていないから、事務的な名簿からは削除する」との回答だった。 パネルディスカッションで、田中氏が触れた東亜日報の記事を見たが、靖国側は霊璽簿そのものからの削除は絶対にしないと言っているので、それはないと思うが、もう一度確認してみる。謝罪をしたというのは、過去になかったことで、大使館の外交ルートで行っているので、そちらも確認したい。 その段階になると、靖国の合祀はムチャクチャになっている。例えば敗戦=解放後の1945年9月30日にミンダナオ島で死んだ例があるが、そのときの国籍はどうだったか? 靖国は、教義上取り消しはできないといっているが、神道一般ではありうるはず。靖国は、歴史が浅く取り消し例がないだけ(笑)。 GUNGUN裁判は、2月15日結審と決定。ドキュメント映画「アンニョン・サヨナラ」の宣伝を少し。主人公は李熙子(イ・ヒジャ)さんの父は、徴用され、中国桂林で死亡している。鑑賞および上映運動への協力をお願いする。 「在韓軍人軍属裁判を支援する会(GUNGUN裁判)」 司会(上杉氏) 靖国の「神様」が、どんどん逃げていって、我々の苦労が少しでも減ればいい(笑)。 Q5.
C氏(ジャーナリスト)― 若年層の靖国支持の背景は?― ジャーナリストの一人として、メディア批判は耳が痛かった。感想と質問を。 昨念8月靖国見学ツァーに参加、遊就館の戦争観に驚愕。今年8月15日にも見学、鎮霊社が目的。軍人、軍属以外の民間人、日本人以外の霊も対象にする沖縄の「平和の礎」に近いとの説明だったが、行ってみるとロープが張られ立ち入り禁止。警備上の理由で今日1日限りとの説明も、木立の中で淋しく佇立する鎮霊社の姿は、賑わう本殿と対照的。これが靖国の本性…。 ・鎮霊社というもの(阿修羅掲示板より) 本殿では講演が行われ、インドネシアのイスラム教指導者(イドリスノ・マジッド世界イスラム連盟東京特派員、下記)が「独立につながった大東亜戦争に感謝」と発言し、次いで金美齢が講演「台湾で接した日本兵は、カッコ良くて、優しかった。その日本兵に文句を言う日本人は、恩知らずである。外国人が文句を言ってきたら、それは“Its not business”(余計なお世話だ)と言ってやればよい」と言っていたら、本当に米国人らしい男性が英語で文句を言ってきた。それに対し金は 「You American Get out Japan!」とやり返し、周囲から拍手が起きていた。 ・西村幸祐 酔夢ing Voice 2005年終戦記念日より(上記講演の詳述) 参加者には20代、それも20歳になった前後の若者が目立った。世代による戦争観が変わって来て、若年層の靖国支持が広がっているのを実感した。 質問であるが、若年層の靖国支持の社会的背景は? 歴史教科書問題をライフワークにしているが、加害責任が書かれているのは、80年代以降、それに対抗する「自由主義史観」、つくる会は97年、小林よしのりの「戦争論」は98年、その影響を受けた世代が、現在25〜30歳前後、彼らの意識の形成に何が影響を及ぼしたのか教えてほしい。 当日、拍手を送る若者の一人に聞いてみたら「今日の平和と繁栄は、戦争で亡くなった尊い犠牲の上に成り立っている」との答え。死者と生者のコミュニケーションは宗教の世界だから、とやかくは言わないが、論理的に考えて、戦争の死者によって現在の繁栄があるという考えは、どうしても理解できない。これをどう理解したらいいのか、ヒントをいただきたい。 --《靖国神社8月15日の特別企画》(日本会議のホームページより)---------- 「終戦60年 国民の集い」プログラム 第1部 第19回戦歿者追悼中央国民集会 クライン孝子(ノンフィクション作家)、小野田 寛郎(小野田自然塾理事長) 石原 慎太郎(東京都知事)、西村 眞悟(衆議院議員・民主党) 司会(上杉氏) 小林よしのりの名前が懐かしい(笑)。 次世代への影響を恐れて小林を批判したが、力及ばず、ご指摘の事態を招来してしまった。 吉田A5. ― 若年層の自信喪失、歴史教育の未成熟が原因、娘一人も説得できん… − 非常に難しい問題。つくる会の結成は97年、吉見俊哉氏の研究によれば、主張自体は、82年に教科書問題が起きた時に論調を変えた「諸君!」などの主張とほぼ同じの焼き直しにすぎない。にもかかわらず、90年代後半からこの主張が広がった背景は何か? やはりグローバリゼーションの進展と国内の「構造改革」による、社会的統合の弛緩への不安感を多くの人々が共有しているのが大きいのでは? 世論調査で日本人の意識調査が始まったのが、1973年か75年以来NHKが5年ごとに行っているが、NHKはナショナリズムを対外的な優越感から見ている。80年代の後半までは、右肩上がりの一流国意識や、自国民の優秀性への自負が上がっていたのが、バブルの崩壊の直前から急速に下がりだす、自信喪失している。特に若い世代にその傾向が著しい。 上の世代は、悲惨な敗戦から立ち直って経済復興した実績で自信を保てるが、若い世代に落ち込みが激しい。80年代の日本文化論は、ジャパンアズナンバーワンのような「勝利の快感」で支えられていたのが、挫折して崩れていこうとしているものを守りたいという屈折したナショナリズムではないか? それが若い世代の中国や韓国人への感情的な反発につながる。 もう一つは、自身への反省であるが、今の20代は、戦後の学校教育の中で初めて、義務教育レベルで加害の実態を教えられた世代である。80年代の後半に日本の教科書はかなり変わり、初めて慰安婦や南京虐殺の加害教材が登場する。私たち(吉田氏は1954年生)は、それをまったく知らないままに青少年期を過ごした。 歴史教育のあり方を含めて反省しなくてはならない。若い20代の学生たちと話していると「加害の歴史を強制されて教え込まれた」という意識が非常に強い。「なぜいつまでも経っても、反省と謝罪を続けなければいけないのか」との反発が、真面目な学生の間にも非常に強い。 歴史教育の流れを知るものから見れば、多少とも謝罪めいたことが始まるのは、やっと90年代になってからで、それまで日本は、ひたすら被害者意識の下で生きてきたと思うので、認識に大きなズレがある。 親も教師も戦争体験を持たず、当然ながら当事者意識もない世代に、加害の問題や侵略の歴史をどう教えたらいいのかという、歴史家や歴史教育関係者の未熟さを自覚せざるを得ない。 最近内海さんたちの共著、近藤一(はじめ)さんという一人の兵士に即して、被害と加害の関係を具体的に描いていて、強い印象を持ったが、それらをきちんと詰めてこなかった私たちの問題も考え直す必要がある。 ・「ある日本兵の二つの戦場‐近藤一の終わらない戦争」(社会評論社) <http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9979097973> 最近多用するジョークだが、中学二年生の私の娘が、テレビを見ていて「中国や韓国と日本は、何でケンカしているの?」と聞かれ「昔日本が攻めていって、とっても悪いことをして云々」と教えたら「私が攻めていったわけじゃないのに、何で今さら言われなきゃいけないの?」と言われ(笑)、反論できなかった(失苦笑)。 その辺の被害と加害の問題を私たち歴史家もどう位置づけて、どう教えたらいいのか? というきちんとした議論をやるべき時期に来ている。 司会(上杉氏) かなり娘さんに甘い体質が露呈されてしまいました(笑)。 Q6.D氏 ― 収集した遺骨の処理は? 大阪判決の影響は? A級戦犯合祀の経緯は?− 内海氏へ、残された遺骨の問題もあるが、収集された遺骨の行方にも問題がある。千鳥ヶ淵墓苑で調べてみたら、収集された遺骨が、遺族の許へ帰った例は非常に少ない。結局、引き取り手がなく処理に困って、千鳥が淵に「捨てられて」いる状態である。厚労省の管轄のはずだが、未だにそのままなのは非常に不思議である。 一方で遺骨収集は、予算が付いて続いているが、その実態は? 時間がなければ千鳥が淵の実態だけでも教えてほしい。内海氏らは入って調査できると聞いているし。 田中氏へ、先日の大阪の判決は勝訴ではないとの台湾側の主張に同意。形式上は勝訴なので、政府は控訴しないはずで、違憲判断は生きていくことになる。これが判例になるのだろうか? 将来的な見通しは?正反対の判決が出た東京高裁との関係は? 吉田氏へ、昭和53(1978)年のA級戦犯合祀の経緯は? 政府のとんでもない行為の研究はなされているのか? 厚生省と「資料をありがとう」で合祀した靖国との認識のズレが感じられる。憲法上許されないはずだが、政治責任を追及した著作や研究はあるだろうか? Q7.Q3の某女の知人 ―
マスコミはなぜ問題を取り上げない ― 田中氏から吉田氏の質問で出ていたマスコミの限界を痛感。強制連行裁判で中国から来日し、親族の墓前で号泣した遺族の姿を見て不眠症になるほどだった。反日デモの報道ばかりで、怒りの原因へのテレビ放映がまったくない。再現ドラマでも作られれば意識の変化も見込めるが、何故取り上げないのか? Q8.上杉氏 ―
靖国に代わる施設はどのように ― 靖国に代わる施設はどうあるべきか? も加えて一人3分でお願いしたい。 ・靖国の地に非宗教の国立墓苑の設置を提案するホームページ 「桜の花咲く靖国で会おう」国立戦没者戦没者墓苑設置によせて <http://www41.tok2.com/home/yasukuni/> 吉田A6. ― 情報公開法で解明へ ― A級合祀の経緯の研究はまだない(笑)、申し訳ない。情報公開法を駆使して現代史研究者が解明する必要がある。今度の「NHKスペシャル」でもそれなりの成果を出せた。 吉田A8. ― 無理がある靖国固執、既に着手済みの新追悼施設の整備
― このまま靖国で突っ走るには無理があり、必ず揺り戻しがある。今回の小泉首相の行動も、ある程度それを睨んでいる気配がある。いきなり無宗教の追悼施設への合意はできないので、自衛隊の殉職者の慰霊碑のメモリアルゾーンの整備から始めるのではないか。レジュメにも紹介したが、メモリアルゾーンは、小泉首相が8月15日の靖国参拝を公言(内外の圧力に屈し8月13日に前倒し惨拝)した01年の秋から整備が始まっており、以前から準備がすすんでいる。 ただし内外の世論の批判に押される形で、無宗教の、国立と議論をするのは問題があって、靖国を通じて向き合わなければならない多くの問題を省略して、他国の国民感情に配慮するにはこれしかないという形で、これを選択するのは不幸なことで、きちんとした議論が望まれる。 内海A6. ― 千鳥ヶ淵は墓ではない!「靖国で会おう」の残酷さ
― 千鳥が淵と新追悼施設はリンクしている。戦記物の映画やドラマに出てくる「靖国で会おう」の残酷さを認識すべき。靖国に辿り着けない死者、「靖国で会う」ために投降できずに死んだ人たち、戦死と認定されない死者たちがどれだけいたか? 靖国に辿り着くまでの日本兵の無残な死について思いを致すべき。 千鳥が淵は墓ではない。一昨日の国会の中の集まりの「戦没者追悼を正す全国連絡会」(0422-53-3861)、の秋山格之助副会長が「千鳥が淵墓苑の沿革と違法な現状」をまとめている。千鳥ヶ淵ができたのが1959年で、33万5千体の遺骨しかない。国立追悼施設の議論以前に千鳥ヶ淵の現状を議論すべき。千鳥ヶ淵への調査方法は探索中。 ・千鳥ヶ淵戦没者墓苑の遺骨の扱いを批判する保守系ブログの例 「無宗教」はそんなにいいことか。2005.5.19付 (スペースが足りず、遺骨は高温で再焼却、粉末に粉砕されて収納されている!) <http://web.sfc.keio.ac.jp/~gaou/cgi-bin/mondou/html/035184.html> ・「千鳥ヶ淵戦没者墓苑の改善と国立墓苑に関する質問主意書」保坂展人代議士の国家質問 <http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a151118.htm> ・「千鳥ヶ淵墓苑における遺骨取り扱いの改善と 国立の戦没者墓地建設促進に関する質問主意書」阿部知子代議士の質問 <http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a154065.htm> 田中A6. ― 違憲「判断」をどう活用するか、出ていない合憲判断
― 確かに主文は全面敗訴。敗訴の道筋を語っているのが違憲判断部分。法的には判断部分は傍論、「裁判官の呟き」(某憲法学者)に過ぎない。違憲判断を批判する立場からは、「捩れ判決」と呼ぶが、それが始まったのが91年の宮城靖国訴訟で、仙台高裁が主文で全部棄却する一方、ほぼ全ページを費やして首相や、天皇の公式参拝が違憲であることを記載されたものが残ることになる。 運動論の問題としてこれらをどう上手く使っていくかである。但し、敗訴は敗訴、実務家の弁護士は、主文で負けても、残りを次にどう使うかを考える。違憲「判決」ではなく、違憲「判断」をいかに活用するかが、運動のあり方である。誤解なきよう強調したいのは、靖国訴訟では、合憲判断は一つも出ていない。 田中A8. ― 靖国を克服しないと二の舞 ― 国立の追悼施設の問題は、数年前から話題になるが、靖国批判派の中での議論は分かれている。対立点は、「国のために、国のせい」で死んだ、殺された人たちは、国家が責任を以って追悼すべき、沖縄の平和の礎のようなものならいいのではないかという意見である。 私は、現段階の国立追悼施設には反対。靖国のあり方や思想を克服しない限り、国立追悼施設を作っても二の舞になるだけ。無宗教というものが本当にあり得るかも疑問。 司会(上杉氏) 長時間ありがとうございます。すべての質問に答えきれず申し訳ない。1985年の中曽根首相の公式参拝に対抗するため、アジアの方たちを追悼するため、「心に刻む集会(アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会)」を立ち上げ活動してきた。 ・心に刻む集会(アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会) 活動の過程で考えたのが、「私たちは、靖国神社では追悼をしていないのではないか」本当に追悼のことを考えると、自分たちの親族の惨めさが理解できた途端に、アジアの人たちが見えてきた。自分たちが被害者であることを突き詰めると、加害者の責任が見えてくる。そういう回路がないとおかしい。 加害から被害に入ってきても、被害から加害に入ってきても、どちらでもいいと思う。20年の運動でまだまだ弱点はあるが、我々はもう一段被害者意識を高めながら、アジア全体の戦争を克服する段階に入ったと思う。 では皆さんお疲れ様でした。 再構成にあたって残った再確認を要する疑問点、不明点、訂正点 1)小島清文氏の投降箇所と最終階級 投降場所:ミンダナオ島(内海氏)、ルソン島(検索各サイト) 最終階級:少尉(中帰連)、中尉(左記以外の各サイト) 2)サイパン玉砕、民間人合祀に言及した澤地久枝氏の著作名(書名を紹介したいので) 3)雲南省の小学校新築費用を折半した政府機関…中央課とはどこか? 4)東南アジアで遺骨収集している青年組織 国士舘ともう一つは? 「建青館」と聞こえたが正しくは? 5)田中伸尚氏言及の合祀取り下げを靖国に拒否された人は誰? 「私の父は…」と聞こえたが、知人かもしれない。 6)生存合祀取り下げを伝えた東亜日報の記事の日付(検索で出ない) 訂正箇所: 1)洪思翊の勤務した収容所を誤:台湾(内海氏)→正:フィリピン 2)Q2での合祀時点での朝鮮、台湾の国籍 誤:田中氏A2での靖国の怪答「亡くなった時は、日本人でなかったから」 正:「亡くなった時は、日本人であったから」(言い間違えか、聞き取りミス) 校閲:語順の入れ替え、単語の追補→特に吉田氏が大規模に (田中氏が「お刺身」なら、吉田氏は「鯵のたたき」レベルにまで再構成) 講演録作成&文責:原 良一(RENK&守る会&救う会&難民基金会員)←対北朝鮮関連 (戦争責任資料センター会員) 講演録の問合せは:〒260-**** 千葉市中央区***-**-*-*** 原 良一宛 電話/Fax:***-***-****(留守録あり) E-mail:roy.hara@k6.dion.ne.jp ※本講演録は、原良一個人の活動で、所属団体の活動ではありません。 |
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