アフガン・イラク・北朝鮮と日本
「海峡を越えた歌姫」が日韓の民衆に問いかけるもの


 チョンウォルソン・ファンクラブ(?)掲示板「海峡」の管理人をされていた鬼薔薇さんが、在日コリアン声楽家チョンウォルソン(田月仙)さんの半生記を取り上げ反響を呼んだドキュメンタリー番組「海峡を越えた歌姫」(NHK教育、'04年7月10日放送)の内容を、ご自身の掲示板にアップしてくれました。文章転載についても快諾していただきましたので、その鬼薔薇さん作成の番組紹介文を此処に転載します。

 私は、チョンウォルソンさんを始めとした在日コリアンや在日左翼の動向に、今後も注目しています。日本を始めとする帝国主義・植民地主義に翻弄され、解放後は民族分断や北朝鮮の専制支配に苦しめられた在日左翼の中からこそ、「日・韓・朝・中」民族排外主義の桎梏を乗り越える新たな動きが生まれてくると思われます。「日本が」「韓国が」「朝鮮が」「中国が」といった偏狭で復古的な「自国溺愛」意識ではなく、「全ての被抑圧民族・虐げられた人々の連帯」に裏付けられた真の民衆ナショナリズムが現れてくる事を切望します。

※尚、鬼薔薇さんの掲示板「海峡」は'04年9月30日で終了しました。現在は鬼薔薇苑というHPでマルクス主義文献の読書会を主宰されています。

NHK教育・ETV特集番組「海峡を越えた歌姫」('04.07.10放送)の内容紹介

「海峡を越えた歌姫」の内容紹介について 
投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月27日(金)00時26分56秒
再放送を全部または一部見損なった方、何人かおられました。後半しかご覧になれなかった社会主義者さんのご希望もございましたので、遅ればせながら番組の内容を粗々ご紹介してみます。

番組全体を、放映時間にしておよそ30分づつ、3つに大別してみました。
I 生い立ち・歌手デビュー・家族のこと・ピョンヤンからの招待
II 「カルメン」ソウル公演と国籍問題・「高麗山河わが愛」:作者との出会い
III 韓国民主化と日本文化・歌が残す植民地支配の爪痕・歌の架け橋


ナレーションや登場人物の語りは貴重なものですけど、再現するとかなりの量になりますので、コンテふうに画像の場面紹介とし、ナレーションに準拠した最小限の説明と、ご本人ほか一部の方の語りのサワリだけ添えました。それでもけっこうの長さになりますが、ご了解くださいませ。粗密も間違いもあろうかと思います。お気づきの点、ご指摘・補足をいただけたら幸いに存じます。画像の種別と内容は〔〕、説明は()で括り、語りは【】で、また挿入歌は*印、歌詞は♪印で示しました。番号付けと小見出しは便宜的なもので、番組そのものにはもちろんございません。

「海峡を越えた歌姫」I−1 
投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月27日(金)00時28分6秒
《イントロ》
〔ビデオ:歌手生活20周年記念リサイタルの舞台(04年2月)歌*「アリラン」〕
【本人語り】争いによって国土も人々も歌さえも引き裂かれていく現実をみて、がむしゃらに歌を通して自分の生きる証を確認してきた、そんな20年だったと思います。

《番組タイトル》「海峡を越えた歌姫」

1〔ビデオ:夜の新宿コリアン街・本人の案内と回想〕

2 生い立ち

〔幼時の写真・両親と姉と4人〕
〔写真:集団舞踊の練習風景、朝鮮学校時代〕
(音楽大学受験のとき朝鮮高校卒は「資格なし」と、どこも門前払い。ようやく桐朋学園が受け入れる)
〔写真:桐朋学園時代。舞台衣装?〕

3 歌手デビュー
(実力が評価され、卒業と同時に二期会に所属)
〔ビデオ:1983年の舞台、独唱 *オペラのアリア〕
〔写真:雑誌・新聞の賞賛記事〕(コリア歌曲もクラシック界で好評)
〔ビデオ:舞台で独唱、歌*「故郷の春」〕

4 家族のこと
〔ビデオ:静岡の実家へ向かう電車〜改札口に父ソクマンさん〕
〔写真:白線入り学生帽姿の若い父〕(15歳のとき軍命の勤労動員で内地へ)
〔フィルム:勤労動員の飛行機工場〕
〔ビデオ:小雨の海岸で父と海をながめながら〕
【父娘の会話】
―海を見ると育った韓国を思い出す。わたしのオモニがたくさん歌を知ってて聞かせてくれたが、大声で歌うと朝鮮語だとチクリされる、そういう虚しい悲しい時があったね。
―アボジに教わった歌は、ふるさとに帰ってみたいという歌だったね。それを聴いて育って、漠然と夢の中に「ふるさと」が描かれるような感じだった。
―それより私は子どもたちを食べさせるのでたいへんだったよ。
〔写真:水上のバラック〕(敗戦後の在日コリアンの困窮した暮らしぶり)
〔フィルム:廃品回収業の仕事現場〕(父は廃品回収業で一家6人を支えた)
〔フィルム:新潟港、帰還船と共和国旗〕(1959年帰還事業始まる)
〔写真:4人の兄〕(上は15歳、下は10歳の4人で渡航)
【父の語り】「楽園」だというし自分の国でもあるから、同じ苦労するなら向こうでと。親としてもそれが正しいと思うわけ。当時としては。
〔フィルム:北朝鮮到着。人波と旗と汽車と〕
(大志を抱いて祖国に帰った兄弟からの音信は帰還8年目で途絶える。やがて4人は強制収容所に入れられ、そこで次男が死に、残る3人は収容所を出てから遠隔地で暮らしていると人伝てに知らされる)
〔ビデオ:海岸に立つ父娘〕

「海峡を越えた歌姫」I−2 
投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月27日(金)00時30分53秒
5 ピョンヤンからの招待
〔写真・ビデオ:北朝鮮政府からの招待状〕(芸術祭参加を求められる。)
【本人の語り】複雑な心境でした。頭の中に描くのはいつも朝鮮半島の全体で、北半分だけ南半分だけが浮かぶことはまずなかった、ひとつの国だと思っていたから。自分の祖国だから行ってみたい、それと兄たちの境遇を確かめたいという気持ちでした。
〔写真:ピョンヤン空港に降り立つ。85年4月〕(兄たちに会えるよう手配を頼んで)
〔写真:金日成主席を囲む大勢の写真のなかの一人ウォルソン〕
〔写真:金日成主席の誕生日に歌う。歌*抗日パルチザンを讃えるアリア/革命歌劇「血の海」より〕(音声は持ち帰ったテープ)
(翌日ホテルで3人の兄たちと25年ぶりの再会)
〔写真:ホテルの部屋で兄と〕(盗聴を恐れて小声で話す)
【本人の語り】兄の眼が何かを訴えるように異様に光っていた。あれほど強く何かを物語ろうとする目は見たことがない。
(帰国したウォルソンさんから話を聞いて、母は次男の墓を建てに北朝鮮訪問)
〔写真:墓前にしゃがむ母キム・カプソンさんと息子〕
(今も音信があるのは四男だけ。90年に長男、2001年に三男死亡の知らせ)
〔ビデオ:海岸の父娘〕
【父娘の語り】
―死んだといわれてもそうは思えないわけ。一生懸命働いて生活を豊かにしているだろうとか、死んだと知ってもそういう夢物語を考えるわけだよ。夢物語。
―海の彼方には結局まぼろし、祖国って結局まぼろしだったと思うときがある。
―まったくそのとおりだね。
〔ビデオ:母の病室〕(三ヵ月前から寝たきりの母をいたわる)
〔ビデオ:倒れる前に母が語り残した録音テープ〕
【テープの母の声】子どもがこんな所に行っているとは夢にも思わなかった。初めて手紙が来てからずっと荷物を送り、4人でいると思って背広も靴もみんな4つ揃えて。…悲しくて悔しくてそのまま帰れない。もし生まれ変わるならこんな寒いところじゃなく…可哀想に。悲劇の元は朝鮮が分断されたこと。責任は日本にもある。本当に可哀想に……
〔ビデオ:舞台 歌*コリア歌曲「恨五百年」〕

「海峡を越えた歌姫」II−1 
投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月27日(金)22時44分34秒
1 「カルメン」ソウル公演と国籍問題
〔ビデオ:東京・新宿 ウォルソン発声練習シーン〕
(ピョンヤン訪問から8年後の1993年、韓国からオペラの主役での出演依頼が。しかしソウル公演には「国籍」の問題)
〔ビデオ:「再入国許可証」と「韓国のパスポート」〕(93年「韓国籍」取得)
【本人の語り】「朝鮮」籍というのは「北朝鮮籍」ではない。「北朝鮮」の国籍だったらもっと複雑な思いがあったと思うけど、朝鮮半島がひとつになっていれば悩みもなかった。どうしても「朝鮮」籍と「韓国」籍に分かれていて、それが国が分断されていることによって何もかも引き裂かれているので、なぜ分断されて二つのものを選択しなければいけないのかという気持ちが強かった。両親のふるさとは南だから訪れたいし、ふるさとで歌いたい気持ちも強かったですね。
〔ビデオ:韓国行き。バスの中〜空港着 1994年9月8日〕
(この年金日成死去、食糧危機で脱北者急増。韓国で対北警戒感強まる)
〔ビデオ:記者会見〕(報道陣の質問は「国籍変更」に集中。本人イライラの様子)
〔写真:「転向歌手」として大きく取り上げる新聞記事〕
〔ビデオ:放送スタジオでのインタビュー。やはり「国籍」が中心〕
〔ビデオ:ソウルの交通渋滞〕(高度成長の韓国で予想以上の北朝鮮敵視にイラつく)
【車中での語り:疲労の色】
―統一したらたいへんでしょ、落差があるから。ちょっと想像を絶するね。早く統一はしてほしいけど、どうなっちゃうのか心配になっちゃう。
〔ビデオ:オペラハウスの全景から内部へ。客席、舞台、公演の準備中〕
〔ビデオ:全員で練習風景。大きなバラの花を持つ「カルメン」役のウォルソン〕
〔ビデオ:オペラハウスの外で歌いながらダンス・ステップを踏む〕(公演に備えて1年以上前からフラメンコ教室に通って役づくりに取り組んできた)
〔ビデオ:ソウル市内〕(人々の暮らしに触れようと練習の合間に町に出る。長年暮らした日本での習慣や考え方、朝鮮学校で習った言葉、現地の人との微妙なずれを感じる)
〔ビデオ:練習所?で食事中、少しリラックスの表情〕
【本人の語り】
われわれは韓国人だけどつまりは「在日」ってことね。ものすごく特殊な。本国の人とまたちがうし、向こうもそう思っているし。北も行ったし南にも行く、どっちも自分の国だと思っているけど、日本で生まれて日本から来て、複雑な気持ち。なんだか日本に帰りたいような気持ちもするし(笑)。
〔ビデオ:公演初日の車の中。スコアを膝に広げ緊張の表情〕
〔ビデオ:楽屋。衣装を着けて身振り。メイクを直しポットの飲物少し含んで舞台へ〕
〔ビデオ:ウォルソン・カルメン、階段から駆下り舞台中央で踊り歌う〕
〔ビデオ:終わって舞台から出演者一同客席にあいさつ〕
(「自国の歌手にない情熱的な演技」とマスコミ評。「転向歌手」の肩書すでになし)
〔ビデオ:幕が降りた舞台。他の出演者とごくろうさんを交わして袖へ〕

2 両親のふるさとへ、そして釜山へ
〔ビデオ:夜汽車のシートで眠る〕(両親のふるさと慶尚南道晋州チョンジュへ)
〔ビデオ:車から降りる〕(小雨の中、出迎えてくれた叔父と先祖の墓参り)
〔ビデオ:坂道を歩いて斜面にある墓地へ。墓の前で叔父と共にひざまづく〕
〔ビデオ:かもめ飛ぶ釜山港。「帰って来い、釜山港へ」をくちづさみながら〕
【本人の語り】これが玄界灘かなあっていう感じ。こんなに近くなのに故郷の地を踏まずに死んだ人もいっぱいいる。ほんとに私たちの民族だけが味わう悲劇だよね。

「海峡を越えた歌姫」II−2 
投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月27日(金)22時45分37秒
3 「高麗山河わが愛」:知られざる作者との出会い
〔ビデオ:新宿風景〜練習室。ピアノを弾きながら。歌*「高麗山河わが愛」〕
(ソウルの街角で買ったカセットに入っていた曲。作者は誰に聞いてもわからない)
【本人の語り】歌詞がほんとにストレートに心に入ってきたんですね。で、ああ、この歌は私が歌わなければ、歌いたい、って。
〔ビデオ:戸棚から大型封筒取出す。アメリカ在住の作者からのもの〕(1996年、アメリカで共演することになった在米の指揮者が作者を識っていた)
【本人の語り】この歌、韓国でも誰も知らないくらいで、歌詞に惹かれてメロディーもきれいで、日本に帰って歌い続けていたんですが、いったいどこで誰がこんな祖国への思いを込めて作ったんだろうといつも思っていました。直接作者の先生から手紙と楽譜が届いたときは、本当に嬉しくて。
〔ビデオ:ワシントンDCへ向かう機内。1996年〕
〔ビデオ:車を降り作者盧光郁ノ・カンウクさん宅、あいさつを交わし抱き合う〕
〔ビデオ:階下の部屋で作者夫妻と〕
【作者との会話】
―「どこに住もうと皆兄弟ではないか」―この歌があまり素晴らしくて、在日同胞の前で歌ってきました。
―まるで月から仙女が降りてきたみたいな。月仙ウォルソンとは素晴らしい名前です。
〔フィルム:朝鮮戦争。空爆、北朝鮮軍占領のソウル〕(北鮮軍支配下で「反動分子」のレッテルを貼られれば政治犯として投獄された。ノさんはアメリカに逃れる。31歳)
〔ビデオ:二階へ。サイドボードに作者の若い写真〕
【作者との会話】
―(日本語で)米国へ来る前に写したの。1952年。若かったね。
―(韓国語で)あの歌は、南北の一般の人々の心情を歌詞で伝えたかったのです。詩にはほどとおい素朴な言葉です。歌詞をなるべく単純にして一晩で書き上げたのです。
〔ビデオ:ウォルソンの弾くピアノで二人で歌う〕
〔ビデオ:1996年12月、ソウル再訪。オーケストラをバックに「高麗山河わが愛」を熱唱〕(以来、日韓両国のコンサートでこの歌を歌い続ける)

4 日朝首脳会談とその風圧
〔ビデオ:2003年9月、ピョンヤン空港に降り立つ小泉首相。首脳会談〕
(大切にしてきた歌を歌えなくなる出来事。北朝鮮が拉致を公式に認めた)
〔ビデオ:曇天の海岸、強い風に吹かれながら一人浜を歩く〕
【本人の語り】拉致問題が発覚したりいろんなことが起きて、私を育ててくれた日本の皆の前で統一への思い、南北平和を求める気持ちを変わりなく歌い続けていけるのか、自分に問うようになったんですね。
(しかし母ガプソンさんは、北朝鮮にわたって非業の死を遂げた息子たちのためにもこの歌を歌い続けてほしいと強く願った)
【本人の語り】めぐみさんのご両親の姿と、やはり何の罪もないのに犠牲になった子を思う母の姿が重なって、どうしていつまでも罪のない人が犠牲にならなきゃいけないのかって(涙)……母が倒れて話ができなくなってからいっそうその思いを引き継いでいかなければという気持ちになりました。
〔ビデオ:20周年記念リサイタル。歌*「高麗山河わが愛」〕

「海峡を越えた歌姫」III−1 
投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月28日(土)22時33分15秒
1 韓国民主化・日韓新時代の架け橋と壁
〔ビデオ:金大中、韓国大統領に就任〕(日本文化の段階的解禁を決定)
(東京・ソウル姉妹都市提携20年記念で両国で公演を行なう親善大使に任ぜられる)
〔ビデオ:記者会見〕
【本人の語り(記者団に)】祖国が韓国・朝鮮半島でありながら日本で育てられたわけですから、新しい時代、日韓文化交流の夜明けに歌を通じて何かできたらと、そういう気持ちを持っております。
〔ビデオ:韓国へ出発〕(親善大使としてはじめて韓国で日本語の歌を歌う)
〔ビデオ:飛行機の窓の外の風景〕(歌*「夜明けのうた」)
〔ビデオ:韓国着、98年10月〕(到着して知る予想外のニュース)
〔ビデオ:韓国のテレビニュース画面〕(ソウル公演で歌う予定だった「夜明けのうた」が日本の大衆歌謡だとして不許可になった)
〔ビデオ:ホテルから車に乗り込む〕
【本人の語り:車中で】自分が選んだ歌、一番歌いたい歌が歌えないというのは今までなかったこと。まあいい経験にもなりましたけど、自分の気持ちを伝えるにふさわしい歌だと思って準備もしてきたことなので、最後までその気持ちで、なんらかの形で歌いたいと思っています。
〔ビデオ:昼間の屋外ステージ〕(不許可の曲を楽譜を逆から演奏しハミングで歌う)
〔ビデオ:ステージを降りてマスコミに囲まれる〕(叱責を受けてか、涙ながらに何度もうなづく。韓国社会が日本の大衆歌謡に抱く警戒心の深さを思い知らされた)

2 埋もれた歌をたずねて
〔ビデオ:海の夕焼け。汽笛。波を切る船の舳先に立つ。2001年〕
〔ビデオ:列車の最後尾デッキ〕(98年の出来事いらい、地方を回り、日本統治下の朝鮮半島で歴史に埋もれた歌、人々の記憶に残るメロディを探し続けている)
〔ビデオ:列車の中で乗客に話を聞く〕
【老人との会話】
―どのような歌か、メロディだけでも教えていただけませんか。
―歌は覚えているけど、歌詞は忘れたな。(手で拍子をとりながら)
 ♪タンタタ、タンタタ、タンタタタタ……(そのメロディは「鉄道唱歌」)
(1900年日本人作詞作曲の「鉄道唱歌」アジアで大流行、朝鮮では「学徒歌」となる)
〔ビデオ:列車の最後尾から走り去るレール〜車内の乗客たち〕
  歌*日本語のオリジナル「鉄道唱歌」(児童合唱)
  歌*朝鮮語版「学徒歌」(男声合唱)
〔ビデオ:ソウル市内。韓国で封印されてきた古いレコードを保存する会社を訪問〕
〔ビデオ:取出されるSP盤〕@「涙の豆満江」、A「息子の血書」
〔写真:「息子の血書」作詞家・趙鳴岩チョウ・ミョウアム(1913-1993)〕
(1942年、朝鮮半島にも徴兵制導入を閣議決定。当時を代表する歌)
〔写真:日本軍将校と朝鮮半島出身志願兵〕
〔ビデオ:ゼンマイ式蓄音機で再生される歌に耳を傾ける。歌*「息子の血書」〕
 ♪母上様にこの手紙を書いています 皇軍兵士になれたのも母上様の恩恵です
  お国に捧げたこの命 故郷に帰るその時は
  降りしきる砲弾の中で 立派に死んで帰ります(テロップの訳詩)
【本人の語り】戦争で死ぬことが美とされた歌を韓国・朝鮮の人が歌った、歌わされたというのはショック。歌は生き物だと思う。何十年も前の歌が戦争を知らない私のような人間の心に入ってきて、またずっと残っていくのかなと。歌い手として、人間の生きて積み重なってきたものが残っていくような歌を歌えるようになればと思います。

「海峡を越えた歌姫」III−2 
投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月28日(土)22時34分5秒
3 よみがえる歌
〔写真:趙鳴岩、妻と幼児と〕(解放後の1948年、妻子を残して北朝鮮に渡った)
〔ビデオ:山道を登る車。地方でひっそり暮らす趙鳴岩の遺児を訪ねる〕
〔ビデオ:迎えられた室内で遺児と夫と。写真を見せてもらい話を聞く〕
(チョウ・ヘリョンさんは、「親日派」の娘、「越北者」の娘、という二重の負い目を背負って戦後韓国社会を生きてきた。)
【チョン・ヘリョンさんの語り】私にとって父はずっと、誰かに知られてはいけない心の傷のような存在でした。写真ももっとあったのですが破ったり燃したりしてしまい、残っているのはこれ(2枚)だけ。それくらい父親は恨めしい存在でした。
―お父さんの作った歌でお好きなものは?
―「落花流水」という歌です。(夫婦で静かに歌う*「落花流水」)
  ♪この山河は落花流水、流れる春に 真っ青な芝生で結んだ誓い
   歳月をのせ、心をのせ、花の人生 峠を越えて行こう(テロップの訳詩)
―じっくり読んでみるとこの歌詞にはとても深い意味が込められていると思うのです。「花が落ちる、水が流れる」というのは、あなた方には申し訳ないけど、いつかは日帝占領時代は終わる(落花)、時代の流れは妨げられない(流水)、そういうことを暗示している歌詞ではないかと思います。
―1940年に作られた歌が現実になって、先生の歌もよみがえりましたね。
〔ビデオ:(ピアノ伴奏が重なって)2枚の写真から山間の風景へ〕

4 心を歌い継ぐ
〔ビデオ:関釜フェリーが切る波〕(2004年、韓国政府は日本の大衆歌謡の全面解禁に踏み切った。だが日朝国交正常化は暗礁に乗り上げたまま)
〔ビデオ:フェリーの甲板で風に吹かれて〕
【本人の語り】私の出遭った歌たちは、母の歌であり父の歌でありまた兄たちの歌であり、この海峡を挟んで生きたいろんな人たちの思いが込められた歌なんだと実感しました。私を育ててくれた日本と愛する祖国朝鮮半島が海によって引き離されるのではなく、この海がつないでいるものだと思って、いつかもっと自由に往来できる道になってくれるようにと願いながら歌い続けていくことができればなと、そう思っています。
〔ビデオ:20周年記念リサイタル 04年2月28日〕
【舞台から(マイクを取って)】皆さま、最後の一曲となりました。新曲「二人の海」をお届けいたします。これは3年前大久保駅で線路に落ちた人を助けようとして日韓の若者が犠牲になった事件をきっかけに作られた歌です。日本と朝鮮半島の間で犠牲になった数多くの魂、韓国の人・北の人・日本の拉致被害者、数々の犠牲になってきた魂に捧げる歌としてこの「二人の海」を歌っていきたいと思います。
 歌*「二人の海」

/END


チョン・ウォルソン(田月仙)さんの紹介

 在日コリアン2世の女性声楽家チョン・ウォルソン(田月仙)さん(46歳)は、分断された「祖国」と日本の間に横たわる複雑な国際政治にほんろうされながらも、20年にわたり一流の声楽家として活躍を続けてきた。日本や祖国朝鮮半島の歌をそれぞれの言語で歌い続けている。

 日本で生まれたウォルソンさんは、父親の事業の失敗や音大の受験資格の壁(在日という理由で願書を受け付けてもらえなかった)を乗り越え、1983年に声楽家としてデビュー。在日で唯一のオペラ歌手(二期会会員)として高い評価を得ることに成功した。
 85年、ウォルソンさんは北朝鮮に招かれ、金日成国家主席(当時)の前でアリアを歌った。訪朝の動機のひとつが、59年に始まった帰還事業で北朝鮮に渡っていた兄たちに会うことだった。4人の兄は強制収容所に入れられ、そのうち一人が死亡していた。

 94年、今度は韓国に招かれ、オペラ「カルメン」の主役を務めた。98年には、東京都の親善大使としてソウルで日本の歌を歌うことになる。両親の生まれ故郷は韓国にある。ウォルソンさんは日韓の明るい未来を願って「夜明けの歌」を歌いたいと申し出た。しかし韓国政府は童謡以外の日本の大衆歌謡を歌うことを許さなかった。

 ウォルソンさんはその後、日本の大衆歌謡に警戒感を抱く韓国社会の深層を知りたいと、韓国中を旅しながら、日本統治下時代の歌を探して回った。そして見つけた古いレコード「息子の血書」。“お母さん、敵弾の下、立派に戦い死んで帰ります”と歌うその歌は朝鮮半島の若者を日本の戦争に徴用するために、朝鮮半島の人々自身の手によって作られ歌われた曲だった。

 ウォルソンさんは、戦後作られた祖国統一を願う歌にも出会う。「高麗山わが愛」。
 “南であれ北であれ、いずこに住もうとみな同じ兄弟ではないか”と歌うこの歌は朝鮮戦争中アメリカに逃れた在米コリアンの男性が作った曲で、ウォルソンさんは日本でも韓国でもコンサートなどで歌い続けてきた。しかし「日本人拉致事件」以降、「被害者と家族の気持ちを考えると歌えない・・・」と、一時、歌うのをためらわざるを得なくなる。

 日本と朝鮮半島の海峡を越え、歌い続けるウォルソンさん。自分の歌は、歴史や国家の枠組みにほんろうされ、犠牲になったすべての人々の魂にささげたいと、彼女は言う。番組は、韓国・北朝鮮・日本という三つの国のはざまで生きる、チョン・ウォルソンさんの半生を通じて、東アジアの激動の現代史を描いてゆく。

 
                「海峡を越えた歌姫〜在日コリアン声楽家の20年〜」
                (NHK教育・ETV特集 '04年7月10日放送)
                声楽家チョン・ウォルソン(田月仙)公式サイトより引用
                  http://www.wolson.com/


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